2019年08月14日:『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の意義について

(3) ゲーム内「身体」は自我を持つべきか

 ところが、実際にはこの「映画のコンセプトと物語の展開との一致」という試みは、果たされませんでした。なぜでしょうか。――厄介なのが「主人公・リュカ」が、「映画の主人公」としての側面と「ゲームのプレイアブル・キャラクター」としての側面の二重性を引き受けているためです。

 別のテキストにおいて、筆者は『Undertale』というゲームを引合いに出し、“ゲーム内「身体」”について論じました(参考:ゲーム内「身体」について、または『Undertale』の「不気味さ」に関する考察)。“ゲーム内「身体」”とは、簡単に言ってしまえば、「ゲーム内に登場するプレイアブル・キャラクターを、ゲームのプレイヤーの身体の延長である捉えること」を指します。「プレイアブル・キャラクターは、プレイヤーの身体の延長である」と捉えることによって、ゲームの世界観にプレイヤーが没頭することが容易になるだけでなく、プレイヤー自身のプレイアブル・キャラクターに対する自己同一性を更に高めていくことが可能となります。

 さて、“ゲーム内「身体」”が上記のような役割を引き受けている以上、その設定にはおのずから制約が発生します。まず、ゲームのプレイアブル・キャラクター(基本的には主人公)は、基本的には喋ることがありません。これは、プレイアブル・キャラクターは飽くまで「プレイヤーの身体の延長」に過ぎないためです。したがって、仮にプレイアブル・キャラクターに口を開くことが許されたとしても、かれらが話し得ることとは、モニターの前で展開を見守っているプレイヤーが考えたこと・感じたことと同じでなければならないはずです。

 次に、仮にプレイアブル・キャラクターに個性(人格)が与えられていたとしても、当該プレイアブル・キャラクターの言動は、単にゲームのシナリオ上の観点から整合的であるだけでなく、プレイヤーの心情に対しても整合的でなければなりません。いかにゲームのシナリオと、プレイアブル・キャラクターの言動が一致していたにしても、それがプレイヤーの心情と合致していなければ、プレイヤーはゲームに強い違和感・不気味さを覚えることでしょう(これを逆手に取ったのは、『Undertale』の“Gルート”だと思います。)。これはゲームの持つダイナミズムなのかもしれませんが、プレイアブル・キャラクターがシナリオ上の展開に遭遇する中で、プレイヤーもまたシナリオから影響を受け、プレイヤー自身のプレイアブル・キャラクターに対する自己同一性を高め、更にゲームを進めようというインセンティブが働くことになるのではないでしょうか。

 翻って、映画の主人公はどうでしょうか。決定的な違いがあるとすれば、映画の主人公は観客の身体として機能し得ず、観客は映画の主人公の行動について一切の裁量権を有さないというところがあります。もちろん、「正義の味方である主人公は、果たして悪に打ち勝てるだろうか」というテーマの映画ならば、原則は主人公の心情と観客の心情(「悪に打ち勝つだろう」という、シナリオの方向性に対する見解)は一致するため、観客が裁量権を有していなくとも問題は発生しません。しかし、いざ実際に、主人公がどのように問題を解決するのかという点に関して言えば、観客は映画内にちりばめられたヒントからそれを予測することができるだけに過ぎず、主人公に口を挟んだり、意のままに操ったりすることなどはもってのほかのこととなります。

 これらのことを総合すると、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』における「主人公・リュカ」は、一方では“ゲーム内「身体」”である「ゲームのプレイアブル・キャラクター」としての側面を持ち、もう一方では“ゲーム内「身体」”ではない「映画の主人公」を持つことになります。

 このように、主人公・リュカは相矛盾する二つの役割を同時に引き受けているのですから、それがハレーションを引き起こすことになるのは当然です。筆者の憶測になりますが、山崎貴監督も、映画を製作する当初から、この「主人公の二重性」のリスクは識別していたのではないかと思います。

 このリスクに対応するための、唯一にして最も簡単な方法は、「プレイアブル・キャラクターとしての側面は完全に無視し、『映画の主人公』として、対象を『ドラゴンクエストⅤ内世界の物語』に限定して映画を製作する」という方法です。

 ですが、『ドラゴンクエストⅤ』のコンセプトは「人生を体験する」こと、それも「もう一つの人生を体験する」ことにあります。もし、『ドラゴンクエストⅤ』を「主人公・リュカの物語」として設定してしまった場合、それこそゲームそのものを、そのゲームを楽しんで遊んだであろうプレイヤーごと否定してしまうことになりかねません。

 だからこそ山崎貴監督は、「主人公の二重性」が持つリスクを引き受けながら、結末にウイルスとの戦いを持ってくることにより、「映画の観客」と「ゲームのプレイヤー」との一致を試みたのではないでしょうか。――もちろん、上記は全て筆者の憶測であり、仮にこの憶測が真であったとしても、失敗してしまっているのですが、「映画の主人公」と「ゲームのプレイアブル・キャラクター」との一致がいかに見落とされがちで、そしていか解決困難な問題であるのかというところについては、一観客として心に留めておく必要があるのではないかと思います。

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