2021年11月23日:梅田ロフト店の事件は「表現内容規制」なのか?

 大阪市北区にある大手雑貨チェーン店「梅田ロフト店」において、イラストレーター・rurudo(ルルド)氏の個展「PLAYROOM」の展示が始まったのは、11月6日からのことでした。

 それから2週間ほど経過した11月18日において、twitter上でその「展示」に指摘がなされます。

 上記のツイートは言葉少なのため、当該ツイートをもって、該当ユーザーが正確には(本当には)何を具体的に言おうとしていたのかは、推測せざるを得ないところもあります。しかしながら、同月22日付けの『スポニチアネックス』の記事を見る限りでは「仕切りなどがなく、露出の多い女性のイラストが一般客の目に入る展示になっていた(https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/11/22/kiji/20211122s00041000469000c.html、2021年11月23日閲覧)」と、大いに議論を喚起する内容であったことがうかがわれます。

 その後、梅田ロフト店は、twitter及びウェブサイト(https://www.loft.co.jp/shop_list/info.php?shop_id=143&info_id=360547、2021年11月23日閲覧)において【お詫び】を掲載しており、ロフトのtwitter公式アカウントも、梅田ロフト店のツイートを引用する形で【お詫び】を展開しています。

① 梅田ロフト店のツイート

② ロフト公式のツイート

 今般、この問題に関しては、「ロフトが謝罪した」という部分的な情報のみが先行してしまっているために、本来的には議論の対象にならないはずの「表現の自由」及び「表現内容規制」にまで、議論が飛び火してしまっています。

 本論は、「表現の自由」、「人権」という概念のそもそもを振り返ったうえで、「ロフトの謝罪」をどのように評価すべきか考察することを目的としています。


 さて、いったんここで、「表現の自由」とは何か、を確認しておきましょう。今更な確認になってしまいますが、まず「表現の自由」とは、「基本的人権」の一部を構成するものであり、他の人権と比較しても、優越的地位のある人権である、と理論づけられています。

 なぜ、他の人権と比較しても「表現の自由」は優越的な地位にあるのでしょうか。それは、民主主義が民主主義として機能するためには、すなわち、主権者である国民が、自由に意見を表明して政策決定を行っていくためには、「表現の自由」が保障されていなければならない、と当然に考えられるためです(http://www.jicl.jp/old/urabe/otona/20150406.html、2021年11月23日閲覧)。

 ここまでは良いのですが、もう一歩踏み込んで、「表現の自由」に代表される“基本的人権”とは、いったい何なのでしょうか。すなわち、「自由」とは、何に対しての“自由”であり、「人権」とは、誰に対して主張するべき“権利”なのでしょうか。この点は案外踏み外しがちですが、「人権」とは、国家権力に対しての“自由”のことを指しています。

 さきほどの「表現の自由」の優越的地位の話とも通じる論とはなりますが、個人に対して、国家が有する権力は非常に大きいため、為政者がその気になれば、自分と立場・意見を異にするような個人を好きなように弾圧することも、粛正することも可能になります。「人権」とは、このような国家権力の暴走・濫用から個人を守ることが第一の目的であり、むしろ目的はそれ以外にはない、と言ってしまっても言い過ぎではないでしょう。

 このように、「表現の自由」そして「人権」の概念を振り返ったとき、「ロフトが謝罪した」ということを、私たちはどのように評価するべきなのでしょうか。

 まず、ロフトは私企業であるため、ロフトがその展示展開をどのように行うのかは、人権上の問題ではなく、私人(私企業)の問題ということができます。展示に当たってどのような契約を制作者と取り交わしたのかは分かりませんが、その契約の範囲内で、双方合意の上で展示展開を改めることに関し、外野が何かを言う正当性はありません。

 その上で、ロフトのウェブサイト及びtweetにおいて展開された【お詫び】、並びに新聞報道において用いられた記述に関し、見逃してはならない点がひとつあります。それは、いずれも展示展開、すなわち「展示のされ方」に対する謝罪である一方、展示された内容物についての是非に関する言及は一切ない、というところにあります。新聞報道の記述を借りれば、「露出の多い女性のイラストが一般客の目に入る展示になっていた」という、公序良俗の観点が問題なのであり、「露出の多い女性のイラスト」そのものの良し悪しは問題にはなっていませんし、問題とするべきではありません。

 したがって、この問題は、その発端からして「梅田ロフト店の展示のやり方がまずかった」というだけの話であり、それ以上の話でも、それ以下の話でもないわけです。

 このところ、千葉県警が交通安全PRの動画に起用したVtuberを巡る議論や、先の衆議院議員選挙において、共産党が公表した政策の一分野が「表現内容規制」の議論を呼び込むものであったことなどのために、この手の話は、ともすれば「オタクvsフェミニスト」という、単純な二項対立で語られがちです。そのような形式で対立をあおった方が、「集客が見込める」から、そのようにしているのではないか、と言いたくなるような切り口で、これらの問題を取り上げている人びとも見受けられます。

 しかしながら、この問題は、徹頭徹尾「公序良俗を損なわない範囲での望ましい展示の在り方」に過ぎず、「表現の自由」の問題でも、「非実在児童ポルノ」の問題でも、「表現内容規制」の問題でもありません。むしろ、この問題を過剰に取り上げてしまい、的外れな擁護・反駁を行ってしまうことにより、却って「表現の自由」を損ない得る世論が喚起され、「表現内容規制」を盛り込んだ政策決定が行われてしまう遠因となる可能性もあります。

 一連の流れに疑問を持った人たちも、まずはいったん踏みとどまって、自分がこの事件の何に大切に考えていて、何に納得がいかなかったのかを、もう一度解きほぐしてみる必要があるのではないでしょうか。

以  上

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