2019年08月14日:『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の意義について

3.「ラストの10分間」について

(1) 「ラストの10分間」の展開について

 「ラストの10分間」で、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』がどのように展開しているのかについては、IGN Japanが公開している記事(前掲)の「なぜ『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は賛否両論の問題作なのか? それはゲーマーに対するふかい愛があるからだ」にサマリーが載っており、問題点を端的に示しているため、ここでそのまま引用します。

 重要なのはやはり、ラストの展開だ。終盤、ついに主人公はミルドラースという大魔王に立ち向かうことになるが、そこでいきなり急展開。実は、自分たちのいる場所がVRで作られた偽りの世界であることがわかる。しかもラスボスはミルドラースではなく、VR世界に現れたウイルスだったのだ。
 やつはこう語る。ウイルスの制作者はゲームなど「虚無だ」と考えており、だからこそこういうVR世界を破壊するのだと。ビアンカやゲレゲレや息子たちはただのデータとなり、消え去ってゆく。しかし主人公は“ゲームは素晴らしいもうひとつの現実だ”と語り、最後の戦いに勝利するのだ。

https://jp.ign.com/dragon-quest-your-story/37548/opinion/

 一読していただければ分かるとおり、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は、最終盤においてメタ・フィクションとして展開し、「主人公リュカと大魔王ミルドラース」という対立から、「主人公リュカ(になり切ったプレイヤー)とミルドラース(ゲームは虚無と考える集合的な意思)」という対立に切り替わります。

(2) 「ラストの10分間」に対する論点

 『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』に対する非難の大多数は、このメタ・フィクション展開と、その展開に込められたメッセージを標的としています。Fujiponさんのレビュー(http://fujipon.hatenadiary.com/entry/dragonquestyourstory)がとても参考になるので、その該当箇所を引用してみたいと思います。

「実はこれはゲームなんだ」

 うるせー、そんなの百も承知だし、僕はこれまで40年くらい、ゲームと一緒に生きてきたんだよ。

 そんなことはいまさらお前なんかに言われなくたって知っているし、ゲームを終えたあとの自分の周りの現実が悲しくなったことなんて腐るほどある。

 いや、だからこそ、ゲームの世界はゲームの世界として、純粋なものであり、没入できる時間にしたいんだ。

               (中 略)

 あのまま普通にミルドラースが出てきて倒して終われよ。みんな「ゲームそのままじゃん」とか言うだろうけど、それでよかったんだよ。

http://fujipon.hatenadiary.com/entry/dragonquestyourstory

 注目するべきは、「これはゲームだ」、「ゲームは虚無だ」等の作中のメッセージに対して、「そんなこと百も承知でゲームをやっているのだ」という主張が鑑賞者からなされている、という点です。そして、このような主張は、他の鑑賞者によるレビューにおいても、異口同音に唱えられている主張なのです。

 さて、余りにも当然のことなのですが、ここで次のことについて確認しておかなければなりません。それは、「これはゲームだ」、「ゲームは虚無だ」等のメッセージも、「そんなこと百も承知でゲームをやっているのだ」という主張も、いずれも「ゲーム」の場で展開されているものではなく「映画」の場で展開されているものだ――という事実です。この事実は軽視されがちですが、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の意義を考える上で、避けて通ることのできない重大な論点を含んでいると考えられます。

 先回りして言ってしまうと、「ゲームは虚無だ」と主張する最大の敵に対し、「ゲームは素晴らしいもうひとつの現実だ」と主人公が主張し、勝利する――という展開は、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を総体として捉えた時には、それなりの整合性を有していると考えることができます。

 ここで言う所の「総体」とは、例えば「ユア・ストーリー」という映画の副題であったり、「君を、生きろ。」という映画のキャッチコピーであったりを指します。すなわち、この映画は「ユア・ストーリー(観客であるあなたの物語)」であって、「劇中主人公であるリュカの物語」ではないことを暗示していますし、「君を、生きろ。」というキャッチコピーは「劇中主人公に仮託した自らの物語として、映画内の生を生きろ」ということを鑑賞者に求めています。

 このように考えると、映画のコンセプトと物語の展開とは軌を一にしているため、その点では整合性が取れていると言えます。 しかしながら、映画のコンセプトと物語の展開が整合的であることをもって、両者を性急に同一視することはできません。というのも、映画のコンセプトは「ゲームのプレイヤー」に焦点を当てている一方、物語の展開は「物語上の主人公・リュカ」に焦点を当てているためです。つまり、「ゲームのプレイヤーである観客の皆さんと、この映画の物語上の主人公・リュカは、一緒なんですよ」という一致が達成されているときに初めて、映画のコンセプトと物語の展開とを同一視することが可能となるのです。

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