2019年11月25日:トロッコ問題の意義について(後編)

 (承前)「トロッコ問題」に正解はあるのか、ないのか……。答えるに先立ち、トロッコ問題が「道徳」の文脈から語られている、という点に注目してみましょう。

 「道徳」ほど捉えどころのない概念は、探してもなかなか見つからないのではないか、と私は思います。あるシチュエーションにおいて適用されたある行為が「道徳的だった」と評価されたとしても、その行為を道徳的なものとして絶対視し、別のシチュエーションに当てはめることは不可能なためです。

 例えば、「長期入院している生徒を励ますために、クラスの皆で千羽鶴を折った」という場面を考えてみましょう。入院している生徒としては、「クラスの皆が自分のことを思ってくれている」と考え、励みになるかもしれません。しかし、このような道徳的なエピソードはケースバイケースです。入院している生徒にとって千羽鶴が励みになり得るのは、長期入院における孤独の中で「皆が自分のことを思ってくれている」という精神的な支えとして、千羽鶴が象徴的に機能するからです。「千羽鶴を折れば励ましになる」のように、直ちに類型化して良いものではありません(なお、当たり前のことですが、千羽鶴が送られたことをどのように捉えるかは、千羽鶴を送られた側の自由です。したがって、「千羽鶴を送ったぞ、励め」のように、励むことが患者に強制されているわけでもありません)。

 このようにして考えると、「道徳」という概念の特殊性が浮き彫りになります。それは、「ある行為を道徳として語った時点で、当該行為は『道徳』としては既に死んでいる」ということ、つまり「道徳は語ることができない」ということです。

 この「道徳は語ることができない」という特性について、ウィトゲンシュタインの「倫理」に関する思想を手掛かりに、更に考えてみたいと思います(なお、「倫理」と「道徳」とを性急に同一視してしまって良いのか、という問題は残りますが、本論では便宜上、両者を同一のものとして取り扱うこととします)。

 ウィトゲンシュタインの思想の全容について扱うのは、本論の手に余るので割愛しますが、前期ウィトゲンシュタインの思想において刮目すべきは、彼が「倫理を超越論的なものとして取り扱った」というところにあります。「超越論的」という言葉は、あまりなじみのない言葉だと思いますが、ここではもっぱら「世界の外側にあって、世界を成り立たせる条件」として考えてください。

 ところで、「倫理とは、世界の外側にあって、世界を成り立たせる条件である」と主張した時、肝心の「倫理」とは、具体的に何を指すのでしょうか。ウィトゲンシュタインにとって、それは「世界において意味ある生を成り立たせる条件」にほかなりません。つまり、世界の外側に、世界を成り立たせる条件として「倫理」があることにより、この世界における生(この世界で生きること)には意義がある……ということになります。

 このように、「倫理」を超越論的なものとして扱ったウィトゲンシュタインの思想は、「道徳は語ることができない」という特性に通じるものがあります。そして、「倫理」が世界の外側にあり、世界を規定するものである以上、道徳もまた、私たちの生きる世界の外側にある、と考えることができるのではないでしょうか。  「トロッコ問題」に正解はあるのか、ないのか……。この問題について、改めて振り返ってみましょう。「正解の有無」だけに注目して「トロッコ問題」を眺めてみれば、「正解はない」ということが答えになるでしょう。しかしながら、「トロッコ問題」が道徳性を帯びているということを含めて考えてみれば、本当に大切なのは「トロッコ問題に正解を与えること」ではなく、「トロッコ問題を問い続けること」自体にあるのではないでしょうか。現に、「トロッコ問題」を一つの手がかりとして、自動車業界では、自立走行車の機能改善が進められています。このような取組は、「トロッコ問題」自体に解決策を与えるわけではありませんが、「トロッコ問題」を思考の契機として、世の中をより良くするための取組であるということはできるでしょう。「トロッコ問題」は「語ることができない」という道徳の特殊性を示すだけでなく、問い続けることによって、今を生きる私たちに豊かな鉱脈をもたらしてくれるのです。

以  上 

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