2022年02月20日: プロゲーマーの「人権」発言に見る“正論”の罪(後編)

承前

3.真の問題

 今から「人権ない」考察を進めていきます。

 “人権”という語が、本来の意味合いで用いられていたとしても、対戦ゲーム界隈の技術用語として用いられていたとしても、「人権ない」とは、「素質・要件を欠いている」というメッセージを、端的に発信していると考えられます。

 たぬかな氏の発言を振り返ってみましょう。氏は「(身長が)170(cm)ない(男性の)方は、『俺って人権ないんだ』って思いながら生きていってください。」と言いました。

 項目2で考察したとおり、“人権”という語の取扱いそれ自体には問題がありません(少なくとも、批判者が問題提起をする余地はありません)。こう考えたとき、たぬかな氏の発言で問題となる部分は、「人権という語の取扱い」ではなく「低身長の男性を揶揄したこと」それ自体にあるのではないでしょうか。

 世間一般と比較した場合において「身長が低い」ことは、それ自体が不利益です。これは社会的・制度的なもの――すなわち、社会の価値観の変化に伴い、低身長の方が高身長より利益になると想定されるもの――ではなく、生得的なものです。

 オーストラリア国立大学の心理学者ポール・ウィルソンは、社会的地位と身長との相関関係について、1968年に興味深い研究成果を報告しています。ウィルソンは、110人の学生グループを5つに分割し、各グループに、「ケンブリッジ大学からやってきた人」を紹介しました。

 このときウィルソンは、「ケンブリッジ大学からやってきた人」の肩書きを、それぞれ①学生、②助手、③講師、④准教授、⑤教授に分けて紹介し、各グループにおいて、その人物の身長を評価してもらいました。その結果は、①から⑤へと、「ケンブリッジ大学からやってきた人」の社会的地位が高くなるにつれて、各グループが見積もった身長も高くなる、というものでした※2

 身長と社会的地位の相関関係、固定観念については様々な研究成果が報告されています。ミシガン州立大学の心理学教授リンダ・A・ジャクソンは、進化論的見地から、「背が高い方が好ましい」という考え方は、狩猟社会だった頃にさかのぼると主張しています。現代社会は、狩猟採集時代とは大きく様変わりしているものの、背の高さが、人を見る際にわずかながらもある程度の影響を与えていることに変わりはなく、特に男性にその影響が顕著であることが指摘されています※3

 このように、たぬかな氏の「人権ない」発言は、“人権”という言葉が誇張であったことを加味しても、低身長の男性は、恒常的に、社会におけるプレゼンス(地位)が低いことを言い当てていると言えるでしょう。実際問題として、低身長であるからといってその人の扱いを雑にすることはありませんが、心理学上、低身長の男性は、高身長の男性が得られるほどの利益は得られないであろうことは、明らかと言えるでしょう。

 このように考えたとき、「低身長の男性には人権がない」とするたぬかな氏の発言は、ある一面の真実を、低身長の男性たちに突き付けてしまった、と捉えることができそうです。そしてこれが、今回たぬかな氏が炎上したことの本質なのではないでしょうか。

 この観点から考えてみれば、たぬかな氏の発言において、やたらと“人権”という用語がクローズアップされたことの意味も、おのずから明らかになります。すなわち、たぬかな氏の発言を批判するとき、「低身長の男性は、社会におけるプレゼンスが低い/低くない」の本質から争おうとすれば、たぬかな氏の批判者まで炎上するリスクが生じます。そこで、“人権”という用語の取扱いを批判すれば、「“人権”は崇高な概念である」という社会通念を足場にして、安全な場所からたぬかな氏を批判することができますし、「低身長の男性は、社会におけるプレゼンスが低い」という、心理学上はもはやどうすることもできない議論を回避し、いわゆる「低身長の男性」たちから攻撃を受けるリスクもなくなるためです。

 さて、ここまで筆者は、「低身長の男性は、社会におけるプレゼンスが低い」ことを所与としてこれまで論じてきました。これ自体は心理学上の研究成果であるため、(慎重に評価する必要はありますが、)おそらくは否定し得ないでしょう。

 しかしながら、「低身長の男性は、社会におけるプレゼンスが低い」ことが科学的に確かめられていたとして、その事実を社会的に突きつける必要性はありません。世間一般に認知されている“人権”の概念に照らして考えるのならば、男性であろうが女性であろうが、低身長であろうが高身長であろうが、人として社会に生きる以上は、平等に扱われるべきだからです。

 すると、たぬかな氏の発言の根本的な問題は、より明らかとなるでしょう。たぬかな氏の発言は、その発言を支持するための根拠や成果を、心理学上の成果に求めることができます。しかしながら、そもそも「低身長の男性は、社会におけるプレゼンスが低い」ということを直截に、はっきりと言ってしまうことそれ自体が、社会的にまずかったのです。

 フランスの哲学者であるウラジミール・ジャンケレヴィッチは、「道徳」を「消えゆく出現」として定義しました。これは、ある行為が道徳として認識された時点で、当該行為は今後道徳としての役割を果たさなくなる、という意味合いです。「低身長の男性は、社会におけるプレゼンスが低い」ということを、みな暗々裏に、体感としては理解していても、それを口には出しませんでした。「性別や身上といった、生得的にどうしようもない差があったとしても、社会的には平等に取り扱うべし」いうことが、不文律の「道徳」であるためです。

 この「道徳」を、たぬかな氏は突き破ってしまった。だからこそ、たぬかな氏は炎上せざるを得なかったのだ、と考えるべきなのではないでしょうか。

以  上 


※2 Perceptual Distortion of Height as a Function of Ascribed Academic Status’/ Paul R. Wilson/The Journal of Social Psychology, February 1968。ただし、『図解 影響力の心理学: 海外の心理実験で証明された「相手にYES!と言わせる技術」』(中野 明 著、2021年、学研)からの孫引き。

※3 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8919/、2022年2月19日閲覧

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