2019年12月23日:「100日後に死ぬワニ」の滑稽さと不気味さについて(2/3)

承前

 さて、まずはジリボンの『不気味な笑い』から論を出発させたいと思います。

 もっとも、普通の進め方ならば、まずはベルクソンの『笑い』を、次にフロイトの『不気味なもの』を把握し、その上で『不気味な笑い』を評価する……という進め方が筋なのかもしれません。

 ですが、ジリボンの『不気味な笑い』は、そもそもベルクソンの『笑い』とフロイトの『不気味なもの』を踏まえた論のため、いきなり『不気味な笑い』から出発し、適宜ベルクソンとフロイトを参照する形で進めたいと思います。

 ジリボンが注目したのは、ベルクソンが『笑い』において“滑稽さ”の領域として特定したものを、フロイトは“不気味さ”の領域として特定したことにあります。つまり、同じ領域を眺めているはずなのにもかかわらず、ベルクソンはそれを“滑稽さ”の源泉と見なしており、フロイトはそれを“不気味さ”の源泉として見なしているのです。

 このような見方の違いは、何に由来しているのでしょうか。この問題を考えるに当たって、ジリボンは、フロイトが体験した“不気味なもの”を考察の対象としています。

 イタリアに旅行に行ったフロイトは、「ある夏の暑い午後、イタリアの小さな町の人気のない見知らぬ通りで道に迷」った挙句、「すぐにも怪しいとわかる地区にうっかり入り込んで」しまいました。自分に注目する「厚化粧の女の顔(おそらく、売春婦のことだと思われます)」にひるみながら、フロイトは「その通りから離れよう」とします。

 ところが、「道を尋ねる人もないままにしばらく彷徨さまよったのち、気がつくと、」フロイトはまた同じ通りに戻っていました。フロイトは「大急ぎでそこから遠ざかろうとした」ものの、「結局はまた別の回り道をして同じところに三度立ち戻る羽目に」陥りました。

 さて、フロイトは上記の自らの体験を“不気味さ”のエピソードとして取り上げていますが、ベルクソンの論から考えてみると、これは十分に“滑稽さ”を宿したエピソードであるということができるでしょう。なぜなら、“滑稽さ”を支えるメカニズムの一つとして、ベルクソンは「反復」を要因として挙げているためです。

 ジリボンもこの点に注目し、フロイトが“不気味さ”を覚えたエピソードを、“滑稽さ”の観点から再解釈しています。

滑稽さと不気味さとの近接を、この一節ほどよく示すものはないだろう。なぜなら、これと同じ出来事(フロイトのエピソードのこと)が容易に、滑稽で皮肉な笑い話にもなりうるからである。すこし堅苦しいウィーンの医者(フロイトのこと)が、自分の書いた理論書ではいたるところで性的なものの存在に言及しているくせに、誘いをかける売春婦に出会うと必死で逃げようとして失敗するのだ。

ジリボン「不気味な笑い」、H.ベルクソン/S.フロイト(原 章二 訳・2016)『笑い/不気味なもの』所収。 p.305

 このように、同じエピソードであっても、“滑稽さ”の観点と“不気味さ”の観点の双方向から捉えることができるのは、なぜでしょうか。ジリボンは、人類学者であるグレゴリー・ベイトソンの“枠”という概念を用いて、両者を説明しています。

続く

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