2023年04月15日:映画『E.T.』における逆光撮影の効果

 1982年に公開された映画『E.T.』は、2022年には映画公開40周年を記念して、ウェブサイト上に公式グッズが発売されるなど、今日に至るまで、高い知名度を誇っています。

 この記事では、映画の中で用いられている“逆光撮影”が、鑑賞者に対してどのような効果を与えているのかという点について、考察してみたいと思います。

 (なお、この記事における“逆光撮影”とは、「登場人物の背後から光(逆光)が照射されることにより、スクリーン上に登場人物の影(シルエット)が映し出されるようになる撮影の仕方」という意味で理解してもらえればと思います。)

 まず、115分にわたる本編の中で、逆光撮影が利用される場面は、それほど多くはありません。主な場面は、次の三場面です。

① ピザの宅配を受け取りに行ったエリオットが、異変に気付いて、E.T.が隠れている物置小屋にまで向かう場面。

② E.T.が、エリオットが森にちりばめたm&mのチョコレートを、エリオットに返す場面。

③ 仮病から復帰したエリオットが、室内に連れ込んだE.T.と、コミュニケーションを取ろうとする場面。

 このように、場面は三つしかありませんが、どの場面もそれなりの時間が割かれており、観客にとっては印象深い場面であると考えることができるでしょう。

 また、映画全体の尺を考えたとき、逆光撮影が用いられる上記三つの場面は、いずれも前半部分に分布しているという点も、見逃すことができない特徴です。すなわち、「どうして映画の後半部分では、逆光撮影がなされていないのか」という問いを立てることができるのですが、この点の検討は、本論の最後に委ねたいと思います。

 次に、「逆光撮影の被写体は誰か」という点を考えてみましょう。上記の三つの場面では、①・③については、エリオットが被写体、②については、E.T.が被写体となっています。

 このうち、②の場面については、比較的分かりやすい解釈を取ることができます。すなわち、②の場面の前までで、エリオットは怪しげな生物(=E.T.)がいることを察知しているものの、直接の接触はまだ果たしていません。だからこそエリオットは、m&mのチョコレートを森に撒くことによって、E.T.をおびき寄せようとし、それが②の場面へとつながっていく――という筋書きとなっています。

 したがって、②の場面は「E.T.とエリオットが、(互いの存在を認知した上での)ファーストコンタクト」という場面になるのですが、この場面が訪れるまで、エリオットも、観客も、E.T.がエリオットに対してどのような態度を取るのか――友好的か敵対的か――を、情報として有していないこととなります。そのような中で利用される逆光撮影の効果、何よりも、逆光で撮影されるところの被写体がE.T.であるということは、“未知との遭遇”に対するスリルを、観客に引き起こす効果が狙われていると考えることができるでしょう。

 何よりこの場面では、E.T.の側からエリオットに接触を試みており、エリオットはといえば、直前までハンモックでうたた寝をしていたために、E.T.と適切な距離を取ることができない(もし、E.T.が人類に対して敵対的であれば、その襲撃を許してしまうことになる)状況にあります。このような状況下で、「“未知の存在”は、影に隠れて見えにくくなっている」というのは、主人公が容易に身動きが取れないという状況と相まって、スリルを増大させる演出と考えられます。

 では、①・③の場面はどうでしょうか。これらの場面において、逆光で撮影される被写体はエリオットとなります。エリオットが主人公であることは、それまでの状況から観客には自明であるため、その輪郭をあえて影に隠す必要性はないように思えます。それではなぜ、これらの場面で、エリオットは逆光の中で撮影されているのでしょうか。

 ここで、映画の中の登場人物と、観客との関係性について論じる、アンドレ・バザン(1918-1958。フランスの映画批評家。“作家主義”を標榜する映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の創刊者として有名)の論考を参考にしてみたいと思います。

 「演劇と映画」という論考において、バザンは、ローゼンクランツが1934年に執筆した論考「映画と演劇」を引き合いに出して、映画と演劇との差異について考察しています。すなわち、映画の観客は、スクリーンに映し出される登場人物とは“同一化”の関係性を有する一方、演劇の観客は、舞台に立つ演者とは“対立”の関係性を有するのだ、と、バザンは指摘します。「『映画におけるエロティシズム』の余白に」という論考で、映画と演劇における観客との関係性の差異に関し、より端的な言及がありますので、それを引用します。

映画では女性が裸であっても、相手役の俳優が身を寄せ、あからさまに彼女を求め、実際に愛撫することもありえる。なぜなら、劇場とは異なり――劇場とは、観客と対峙し、観客に意識されることによって成り立つ演技が展開される現実の場にほかならない――、映画は創造的な空間の中で展開し、観客の参加と同一化を促すからだ。女性を我が物とする俳優は、私の代わりに望みをかなえてくれるのだ。その俳優の魅力、美しさ、大胆さは、私の欲望と対立することはなく、むしろ欲望を実現してくれるのである。

(バザン 2015, p.69)

 この引用よりも前の段落では、演劇、及びストリップショーが引き合いに出されているのですが、卑近な話として、ストリップショー(舞台で展開されるもの)とアダルトビデオ(映像として展開されるもの)とを交互に考えてみれば、より分かりやすいかもしれません。両者の違いは、ストリップショーでは男優は不在である一方、アダルトビデオでは男優がいるという点です。ストリップショーに関して、バザンは「ストリップショーでは女性が自ら脱ぐという点を重要な点として挙げてもいいだろう。相手役の男が脱がせるとしたら、観客席のすべての男たちの嫉妬を買うことになってしまう。実際、ストリップショーは観客の欲望を一極に集め、煽り高めることによって成り立っており、それぞれの観客は、身を委ねるふりをする踊り子を想像裡に手に入れるのである(バザン 2015, pp.68-9)」と述べています。

 すなわち、舞台上で展開されるエロティシズム(ストリップショー)において、【舞台上の演者】と【観客】は対立関係にあるため、ストリップショーに男優が登場してしまえば、その男優は観客の欲望と対立することになってしまう。他方、スクリーン上で展開されるエロティシズム(アダルトビデオ)において、【スクリーン上の登場人物】と【観客】は同一化の関係にあるため、たとえ男優が。女優とセックスの演技をしたとしても、それは観客の欲望の実現にほかならないのだ――と整理することができるのです。

 さて、『E.T.』の考察へと戻りましょう。バザンの論考を参考に、私たちは「映画における登場人物は、観客の欲望をかなえる主体(同一化の対象)として作用する」という点を確認しました。

 その上で、『E.T.』において逆光撮影が行われている残りのシーン、すなわち、「① ピザの宅配を受け取りに行ったエリオットが、異変に気付いて、E.T.が隠れている物置小屋にまで向かう場面」と、「③ 仮病から復帰したエリオットが、室内に連れ込んだE.T.と、コミュニケーションを取ろうとする場面」を振り返ってみましょう。ここまで来れば、この二つのシーンの狙いは明らかと言えるのではないでしょうか。すなわち、これらのシーンにおいて、エリオットは“未知との遭遇”を果たそうとしており、エリオットの輪郭がシルエットへと溶け込み、抽象化されることによって、観客は、エリオットをより深く自らと同一化させることになる。すなわち、宇宙からやって来た存在に、観客自身が接触し、意思疎通を図ろうとするかのような没入感を与えることに、逆光撮影は寄与している――と、考えることができると思います。

 また、逆光撮影の効果をこのように考えることによって、「どうして映画の後半部分では、逆光撮影がなされていないのか」という問いにも、回答を与えることが可能となります。場面とストーリーの連関を考えてみれば、映画の前半は、主人公のエリオット(とその兄妹たち)が、E.T.との邂逅と、その意思疎通を果たす部分に当たり、後半は、E.T.との意思疎通に基づき、エリオットたちが、かれを宇宙の故郷へ返すために力と知恵を絞る部分に当たります。すなわち、E.T.との出会いが、文字どおり“未知との遭遇”(エリオットの前に現れた宇宙人は、エリオットに対して敵対的かどうかがわからない状況)であった前半に対し、意思疎通が取れるようになった後半では、E.T.は恐れるべき存在ではなく、エリオットの友人であり、その目的(宇宙へ帰ること)もはっきりしている、という状況であると言うことができます。

 このようにストーリーを整理すれば、観客と登場人物との同一化を強固なものにし、没入感を深め、“未知との遭遇”によるスリルを観客に味わわせるための手段として、逆光撮影の利用が前半パートでのみ行われることの理由も説明がつきます。また、前半パートを影(黒さ)のパートとして鑑賞するとき、後半パートでは、対照的に、多くの場面で“白さ”が目立つことも確認することができます(ハロウィンの日において、E.T.は幽霊の仮装として、白い布を被る/E.T.は瀕死となり、全身が白くなる/政府機関の科学者たちは白装束に身を固め、エリオットの家を白く覆いつくす)。白色が、全てのものを明るみに晒す、暴露する、という意味合いの象徴として作用することを考えたとき、前半パートでは、影(黒さ)を象徴として“未知との遭遇”の物語が展開された一方、後半パートでは、白さを象徴として、E.T.を理解し、E.T.の意図を汲んで、かれを宇宙まで送りだすための物語が展開された――という構造を見て取ることができるのではないでしょうか。

以  上


【参考文献】
アンドレ・バザン(野崎 歓・大原 宣久・谷本 道昭 訳)(2015)『映画とは何か(下)』、岩波文庫

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