2022年02月19日: プロゲーマーの「人権」発言に見る“正論”の罪(前編)

1.はじめに

 2022年2月17日に、プロゲーミング・チームである”CYCLOPS athlete gaming(サイクロプス アスリート ゲーミング)”は、所属しているプロゲーマー・たぬかな氏との契約を解除しました。

 これは、2月15日のライブ配信において、たぬかな氏が低身長の男性を引き合いに出して、「人権ない」という発言を行ったことが原因となります。この発言がきっかけで、たぬかな氏は炎上し、結果としてスポンサーであるレッドブルの降板、プロゲーミング・チームとの契約解除という結果になりました。

 たぬかな氏の発言の中で特に問題視されているのが、低身長の男性を揶揄するに当たって、氏が「人権ない」と、“人権”という語を用いたことにあります。本記事では、この点を考察してみたいと思います。

2.問題の特定、または「みかけの問題」の排除

 たぬかな氏が、“人権”という語を用いて低身長の男性を揶揄したことの、何が問題だったのでしょうか。まずはこの点を考えてみましょう。

 事件が広がりを見せる中で、たぬかな氏に対する批判の多くは「“人権”という言葉をあまりにも軽々しく使っているのではないか」というものでした。この批判の妥当性を評価するためには、まず“人権”という語の内実を確認しておかなければなりません。

 “人権”とは何でしょうか。公益財団法人 人権教育啓発推進センターのウェブサイトには、「人権とは、私たちが幸せに生きるための権利で、人種や民族、性別を超えて万人に共通した一人ひとりに備わった権利です。」と説明されています※1。これはこれで正しいのですが、“人権”概念については、その歴史的経緯も併せて把握しておかなければ、「どのような場面で“人権”を適用できるか」という点を誤ってしまいます。

 このウェブサイトのほかの記事を何度かご覧いただいている方(そんな人がいれば、の話)には分かると思いますが、“人権”とは、第一義的には「私人と国家(公権力)」の関係を規定するものになります。

 日常生活で、あまり国家(公権力)の大きさを実感することは少ないと思いますが、ちょっと考えてみれば、私人の財産を収奪したり(税金)、個人の行動の自由を拘束したり(逮捕)など、国家は、みずからの権力を行使しようとすれば、私人に対していくらでも影響力を行使することができます。

 (余談ですが、新型コロナウイルス感染症に伴う緊急事態宣言と、それに対する補償も、“人権”の文脈から捉える必要があります。すなわち、国家(公権力)は、「緊急事態宣言」をもって、本来的には自由であるはずの私人の活動を抑制するのであるから、当然に機会費用を補償するべきなのだ――という考えが背景にあります。)

 「一人ひとりは、みな自由で、平等である。しかし、平等な人たちが集合して社会(国家/公権力)を形成すると、社会は、少数派である人びとを主として、一人ひとりに対して権力を濫用し、人びとの自由や平等を損なうことをやりかねない。そこで、国家(公権力)が絶対に侵害し得ない個人の権利を、“人権”として設定しよう」――これが“人権”概念の本質になります。繰り返しになりますが、“人権”とは「私人と国家(公権力)」の関係を規定するものであり、「私人と私人」の関係を規定するものではありません。

 さて、このように“人権”概念を振り返ってみれば、たぬかな氏の「人権ない」発言は、“人権”という語を適切に使用してはいない、ということになるでしょう。

 しかしながら、この事実は逆説的に、「たぬかな氏が炎上したことの本質は、“人権”概念にはない」ということを示唆しています。というのも、もし“人権”概念が正しく世間一般に浸透していれば、たぬかな氏の言う“人権”は、いわゆる正当な意味合いとしての“人権”でないことは明らかであり、責められるべきは「語の濫用(言葉を軽々しく使うこと)」ではなく「語の誤用(言葉を誤って用いること)」になるからです。

 すると、次の問題は、たぬかな氏の「語の誤用」は、故意によるものか過失によるものか、という点になります。

 これについては、たぬかな氏は明らかな意図をもって「人権ない」と言っていると考えられます。いわゆるe-sportsを標榜するような各種のゲームレーベル(オンライン対戦が可能であり、世界的に人気があるようなゲーム)において、日本人のプレーヤーは、「人権」や「環境」という言葉を、ゲーム上の技術用語(テクニカル・ターム)として、往々に使用します。例えば、

「現環境おいて、××というキャラクター/アイテムは人権ない」

 という発言は、部外者には意味不明でしょうが、そのゲームを行っている人には(あるいは、対戦ゲームに触れたことのある人にとっては)意味を汲み取れる発言になります。

 まず、オンラインの対戦ゲームでは、対戦ゲームであることを標榜する以上、どのようなキャラクターやアイテムを選択しても、ある程度は50:50で対戦が楽しめるような環境を作るよう、ゲームの運営者は工夫します。当たり前ですが、プレーヤーは負けるより勝つ方を望みますから、そのゲーム内で優位に立ちやすいキャラクターやアイテムがあれば、それが大きなシェアを占めるようになります。

 しかし、ある一定のキャラクターやアイテムに選好が偏ってしまうと、ゲームバランスが崩れてしまいますので、それを調節する目的で、ゲームの運営者はゲームをアップデートします。これにより、日の目を見なかったキャラクターやアイテムも活躍できるようになったり、それまでに強かったキャラクターやアイテムが、そこまで優位に立てなくなったりします。

 このように、オンライン型の対戦ゲームでは、アップデートに伴って優位に立てるキャラクターやアイテムが変化します。そのため「“このアップデート状況下において”○○というキャラクターが一番優位に立てる」という意味合いのもと、“環境”というワードが利用されます。

 そして当然、変更後の“環境”によっては、ゲーム内で全く優位に立てなくなるキャラクターやアイテムも、当然に登場します。そのようなキャラクターやアイテムは、プレーヤーの習熟度にかかわらず、もはやそれ自体が負ける要因・前提を構成してしまいますので、「“人権”がない」のような言われ方をされることになります。

 したがって、たぬかな氏の「人権ない」発言も、このような対戦ゲーム界隈における技術用語として捉えることが適切でしょう。そもそもたぬかな氏は、自分が“人権”という語を誤用しているという認識自体がないはずです。

 このように考えていくと、たぬかな氏の「人権ない」発言は、「人権という語を誤用している」と批判したとしても、「対戦ゲーム界隈における技術用語として、“人権”という語を用いたのであって、誤用したとは考えていない」と回答することができます。もちろん、対戦ゲーム界隈の用語が世間一般に浸透しているとは言い難く、そのために炎上することは十分に考えられますが、その場合に釈明すべきは、「対戦ゲーム界隈での“人権”という語の使い方が世間一般にも浸透していると思い込み、不適切な外観を与えてしまった」ことにあるため、やはり“人権”という語の取扱い自体を問題提起することは、困難と言えるでしょう。

続く


※1 http://www.jinken.or.jp/jinken-info/jinken-guide、2022年2月19日閲覧

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