2019年08月13日:ゲーム内「身体」について、または『Undertale』の「不気味さ」に関する考察(再掲)

 私たちはいかにして、「ゲームで遊ぶ」ことが可能であるのか――。本論の根底にある問いは、これです(なお、本論で言うところの「ゲーム」とは、TVゲーム等の電子機器を利用して遊ぶゲームのことを指します)。ゲーム文化の発展は目覚ましく、近年では”e-Sports”なども流行の兆しを見せています。このようなゲームの興隆の背景には、ゲームをより面白く、かつ魅力的にすることを可能とする技術の発達が裏にあることは間違いないでしょう。

 しかしながら、「技術の発達」が直ちに「ゲームで遊ぶこと」と結びつくことはありません。それどころか、両者は全く無関係と言ってしまっても良いかもしれません。なぜなら、今のように3Dグラフィックが基本となる前から、私たちは2Dの、映像としてはお粗末なゲームを楽しむことができましたし、近年もてはやされているVR(Virtual Reality)ゲームは、少なくともVRの技術が確立した時点から見てみれば、登場はあまりにも遅いと言ってしまって良いからです。つまり、「技術の発達」を手がかりとしても、「ゲームで遊ぶこと」がいかにして可能であるのかという根源を明らかにすることはできないのです。

 ここで私たちは、答えへのアプローチの仕方を変えなければなりません。答えをもたらしてくれそうな手がかりから問いに対しての外堀を埋めていくのではなく、むしろ、問いの側から出発して、答えに至るまでの道筋を歩きつぶしていく必要があります。このような遍歴は、全数的な調査、又は迷路を壁をなぞって進んでいくような外観を私たちに与えます(迷路は、壁をなぞれば必ずゴールにはたどり着けますが、効率的にゴールを探すならば、行き止まりを塗りつぶしていったほうが、早くゴールを見つけることができます)。一見するとその工数は膨大ですが、しかし私たちはこの方法を採用するほかありません。得てして答えを見出そうとするとき、私たちは無自覚的に自らを神と同定し、神の位置から逆算的に答えを見出そうとしてしまう悪癖があります。これが悪癖であるのは、まずそもそも私たちは全能者ではなく、俯瞰的な位置から物事を見ることのできる存在ではないからですし、万が一そのような振舞いが可能であったにしても、論ずるに当たっては答えを先取りしながら論ずることになってしまい、つまり自明である意味の底を「自明である意味の底」であると言明するかのような、空転する車輪のような論をたててしまうことになるからです。しかし、それは本意ではないはずです。

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