2020年09月06日:小児性愛者の比類なき社会貢献について(2/2)

承前

 一般的な話になりますが、その媒介メディアの形態にかかわらず、「発信されたもの」は、何かしらのメッセージを含んだものとなります。メッセージには、単なる情報を伝達するものもあれば、小説やエッセイのように、感情や意見を伝達するものもあります。

 「どんなに稚拙でも良いから、『自分の考え』を書きなさい」というのが、論考をものす上での第一の心構えになります。その意味で、四谷三丁目氏の論考は、「オタクが引き受けなければならない社会的責任から目を背けるな」という警告を発信しており、それだけでもう十分な価値があります。

 その一方で、論を急ぐあまりに、読み手にとってつまずきの石となっているところが2か所あります。

 ひとつ目は、(先述したように)「犯罪」と「人権侵害」とを同一として論じていること。もちろん、日常生活を送る上では、両者はほとんど同義と考えてしまって良いかもしれません。しかし、犯罪が飽くまでも「法制度上の取扱い」に過ぎない一方で、「人権」は近現代の市民社会をなす根源的な価値観であるということについては、いくら注意しても注意し過ぎることはないはずです。

 上記の引用ツイートは、(当該論考を直接批判しているわけではありませんが、)「犯罪」と「人権侵害」とを同一の事項として論じている当該論考に対して、厳しい揶揄を投げかけているものと言えるでしょう。「犯罪」を切り口として小児性愛を論じてしまえば、上記の引用ツイートのとおり、法制度が異なる国が存在することを反例として挙げられてしまいます。一方で、切り口を「人権」に据えてみれば、「小児性愛は人権侵害である。イエメンでは児童婚が合法だが、これは人権侵害である」と主張することができたはずです(ちなみに、イエメンは「子供の権利に関する条約」を批准していますが、2014年時点では依然として児童婚が行われており、人権侵害として指摘されているようです(https://www.unicef.or.jp/children/children_now/yemen/sek_ye_10.html、2020年9月2日閲覧)。)。

 ところで、これまでの考察は、あたかも「人権」という概念を所与のもの、つまり、「人権侵害は必然的にダメなもの」として扱っていますが、これは妥当なのでしょうか。時代が変われば、「人権侵害」も「犯罪」と同じように、善悪が変転することはないのでしょうか。

 ここで考えなければならないのは、「犯罪」という概念が法制度上の取り扱いである一方、「人権」という概念は、近現代の国家・近現代の社会を成り立たせている「基盤」である、という違いがあることです。

 先ほど「人権」を「個人が保有している生命・自由・財産は、何人にも侵害されない」権利として紹介しましたが、生命・自由・財産のどれか一つでも欠けてしまえば、現代に生きる私たちの生活は、たちどころに立ち行かなくなってしまうでしょう。その意味で、「人権」とは現代社会の根幹をなす概念と言えます。

 そうである以上、「人権を侵害すること」は、現代社会に対する一種の挑戦にほかなりませんから、「人権を侵害すること」は、現代の価値観の中では、当然に悪として位置付けられることになります。

 遠い将来にどこからともなくやって来た新人類が、人権よりも優れた概念を生み出し、それが「現代社会」を「超現代社会」に変革した時には、「人権を侵害すること」が問題にならなくなるかもしれません。この時、人権の侵害は悪ではなくなり、「人権」概念は旧時代のもの、不要なものとなり、歴史の闇に消えていくことになるかもしれません(ただ、それよりも先に人類が滅亡する方が早い、と私は思います。)。

 当該論考の前段部分で、四谷三丁目氏が「犯罪」といっている箇所は、全て「人権侵害」に置き換えても、論旨を何ら変更するものではありません。今からでも遅くないので、「人権侵害」に置き換えた方が良いのではないかと、私は思います。

 さて、もうひとつは論考の構成です。論考の前段において、氏は「小児性愛という性的嗜好の持ち主が、ラブドールを購入・使用して感想を述べたことは、子供に対する潜在的な人権侵害につながる」ことを主張しています。また、論考の後段において、氏は前段を踏まえつつ、「フィクションが良い影響を与えることもあれば、悪い影響を与えることもある。ケースバイケースではあるが、悪い影響を与える可能性がある以上は、その危険性を訴える意見に真摯に向き合うべきだ」ということを主張しています。

 ここで「前段を踏まえつつ」とわざわざ書きましたが、注意深く読んでみれば、前段の主張と後段の主張とが簡単に接続しないことは明らかです。

 後段の主張を基準として、前段を検討してみましょう。後段の主張を前段の事例に適用させると、「ラブドールの使用が良い影響を与えることもあれば、悪い影響を与えることもある」ということになります。

 このこと自体は、氏も当該論考の中で主張しており、実際その通りなのですが、そもそも前段で論点となっていたのは、「『ラブドールを使用した』ことを表明することによって、どのような影響が及ぶのか」ということではなく、「ラブドール購入者・使用者が保有している価値観(この場合は「小児性愛」という性的嗜好)は良いのか、悪いのか」ということのはずです。

 より具体的に、前段の主張を言い換えてみましょう。すると、「小児性愛という性的嗜好の持ち主が、その性的嗜好を充足させる目的でXを利用し、そのことを表明したことは、子供に対する潜在的な人権侵害につながる」と言い換えることができます。

 ところで、先ほど述べたように、「人権侵害」とは、現代社会では必然的に「悪」とされる事柄でした。そうである以上、Xという変数(後段で言うところの「フィクション」)に何が代入されようとも、「小児性愛(の表明・行使)は人権侵害」という命題には無関係です。Xに代入されるのが、「たわし」だろうが、「わさび」だろうが、「長洲小力」だろうが、「小児性愛(の表明・行使)は人権侵害」という論旨に変更は生じません。

 すると、前段における「小児性愛という性的嗜好の持ち主が、その性的嗜好を充足させる目的でXを利用し、そのことを表明したことは、子供に対する潜在的な人権侵害につながる」という主張は、後段の「Xが良い影響を与えることもあれば、悪い影響を与えることもある」という主張を、直接支援する主張ではなくなってしまうのです。

 では、前段の主張を基準として後段を検討してみれば、どうなるでしょうか。論をたないかもしれませんが、「小児性愛(の表明・行使)は人権侵害」ということを必然のものとして受容することになるため、「フィクションが良い影響を与えることもあれば、悪い影響を与えることもある」という主張が成り立たなくなってしまいます。

 このように当該論考を振り返ってみれば、「人権侵害」という言葉を用いずに「犯罪」という言葉を用いたことにも、一定の理由があるのではないか、と考えられます。

 邪推になりますが、前述したとおり、「人権侵害」と言ってしまえば必然的に悪と断定されてしまう一方で、「犯罪」ならば「法律が変わることはあるし、国によって法制度は違う」と言うことができます。

 「人権侵害」ではなく「犯罪」として論を追ってみた場合、どうなるでしょうか。――「ある行為が犯罪に該当することもあれば、犯罪に該当しないこともある。フィクションが良い影響を与えることもあれば、悪い影響を与えることもある。しかし、フィクションが悪い影響を与え、ひいては犯罪に該当する可能性もゼロとは言えない以上、その危険性を訴える意見に真摯に向き合うべきだ」、のように、前段と後段とを自然に接続することができます。

 すなわち、「小児性愛」を「人権侵害」ではなく「犯罪」として主張すれば、話の焦点を「フィクションが与える影響の良し悪し」に持っていくことができ、前段の主張と後段の主張とを、無理なく接続することができるのです。当該論考の中で、あえて「人権侵害」ではなく「犯罪」と言ったのは、この辺りの問題を巧みに回避したい意図があったのかもしれません。


 さて、いい加減な話はこのくらいにしましょう。人権の観点から児童が守られるのは当然ですが、この話題のきっかけとなった「小児性愛」という性的嗜好の持ち主は、どうなのでしょうか。

その上で弁明のツイートにて彼は、「小児性愛者の苦しみを理解してほしい」という旨のコメントもしている。ハッキリ言おう。己の加害性も理解していない小児性愛者を忌避はしても、労り受け入れることなどできようがない。子どもにとって危険でしかないからだ。(2020年9月5日閲覧)

https://note.com/yo_tsu_ya_3/n/neda17138f9f7

 上記の引用のとおり、四谷三丁目氏の言いようは手厳しいですが、その一方で、「小児性愛障害」という言葉が示す通り、小児性愛は障害としても認知されています(MSDマニュアル-プロフェッショナル版「小児性愛障害」、https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB/08-%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E9%9A%9C%E5%AE%B3/%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%EF%BC%8C%E6%80%A7%E5%88%A5%E9%81%95%E5%92%8C%EF%BC%8C%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2/%E5%B0%8F%E5%85%90%E6%80%A7%E6%84%9B%E9%9A%9C%E5%AE%B3、2020年9月5日)。子供が圧倒的な弱者であるのはもちろんですが、「性的嗜好」という器だけで掬い取ろうとすると「小児性愛」はそこからこぼれてしまうのではないでしょうか。

 「小児性愛」という単語だけでザっと検索してみるだけでも、再発防止のための取組や、サポートプログラムの概要などを確認することができます(弁護士法人中村国際刑事法律事務所、https://www.t-nakamura-law.com/column/%e5%b0%8f%e5%85%90%e6%80%a7%e6%84%9b%e9%9a%9c%e5%ae%b3%e3%83%9a%e3%83%89%e3%83%95%e3%82%a3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%81%a8%e3%81%af%ef%bd%9c%e5%b0%8f%e5%85%90%e6%80%a7%e6%84%9b%e9%9a%9c%e5%ae%b3%e3%81%a8#GPS、2020年9月5日閲覧)。

 側聞では、今回ラブドールの購入・使用レポートを書いた当人は、「本当は小児性愛者ではなく、単に自己顕示欲のために、注目を集めたかった」と吐露しているだけ、という信ぴょう性の確認できない情報も耳にしますが、仮に当人が本当に小児性愛者だったとした場合、その人がラブドールを購入し、使用レポートを公表したことには、非常に大きな意義があります。

 それは、今回の一連の事件により、「小児性愛」や「同性愛」、ひいては「人権」といった問題について、世の中の関心が集まったことです。特に、LGBTの話題などは、その新規性ばかりが注目され、LGBTという概念についての理解が深まったわけでもなければ、「LGBTでない人」たちに対し、LGBTの存在が開かれるようになったわけでもありません。

 「多様性のある社会」を目指すために、私たちは様々な問題に対して知恵を絞り、不断の努力を積み重ねる必要がありますが、このような話題を契機として議論が喚起されることについては、それ自体に意義があります。

 その意味で、こうも言えるのではないでしょうか。――「今回の小児性愛者は、ラブドールを購入し、使用したレポートを公表したことで、世論を喚起し、比類なき社会貢献を果たした」と。

以  上 

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする