2019年07月26日:祈りは誰のためか、又は京アニの放火事件について

1.事件への反応

 去る7月18日に、京都市にある京都アニメーション(以下「京アニ」と言います。)で放火事件が発生しました。建物の1階に侵入した容疑者は、事前に購入したガソリンをフロアに撒いた上で着火し、建物は一瞬のうちに炎に包まれました。

 現時点で、死者は34人に達しています。日本の犯罪史上を見ても、一瞬のうちにこれほどまでに大量の死者を出した事件は、類を見ないでしょう。

 このことについて、1週間近く経った今でもネット上では話題となっており、今だに謬見びゅうけんや憶測に基づく議論で華やいでいますが(それがインターネットというものですが)、注目したいのは、事件が発生した当日に、「#prayforkyouani」という奇怪なハッシュタグがtwitter上を席巻したことです。

 “pray for ~ ”とは、直訳すれば「~のために祈る」となります。よって、”pray for kyouani”とは「京アニのために祈りを捧げる」という意味になります。

 しかし、今回の事件に関して、京都アニメーションのために祈りを捧げることには、果たしてどのような意味があるのでしょうか。Twitter上で「#prayfor……」というハッシュタグがトレンドに入る時とは、基本的に「祈られる」対象が大きな災害に見舞われた時などです。例えば、2011年3月11日に、東日本大震災が発生した後などは、「#prayforJapan」というハッシュタグの付されたツイートが大量に出回りました。

2.「祈り」は何のためか

 「天災の被災者に対して祈りを捧げる」という行為については、合理性はないかもしれませんが、こと人類の生得的な習慣として捉えた場合(麻薬の売人みたいな言い草ではあるけれど!)、一定の整合性があります。というのも、人間に対して災いをもたらしているのは、人間の理解の及ばない存在、すなわち「天」ですから、その「天」に働きかける手段としては「祈り」しかないわけです。

 分析哲学の始祖とされる、オーストリアの哲学者・ウィトゲンシュタインは、その前期の思想の中で、「祈ること」についても考察を加えています。

 ウィトゲンシュタインの前期思想において、「考えること」とは、飽くまで言語の限界の中で世界について特定することを意味しています。その一方で、「世界を特定するための手段として言語が存在する」ということを担保するためには、言語を超越した地点に、別の概念が存在していなければなりません。そのように超越的な概念として、ウィトゲンシュタインは「論理」を据えていました。

 その一方で、人間の生を意味あるものとするために、ウィトゲンシュタインは「意味あるものとしての生」を担保する概念として「倫理/神」を設定していました。ここで厄介なのは、このように「神」を超越的な概念として設定してしまうと、我々は神について語ることが一切できなくなってしまう、という点です。というのも、神は言語活動の外側にいて、その言語活動を超越的な立場から担保する存在ですから、その神について語るということは、すなわち超越的であるはずの概念を、言語という形而下に落としてしまうことになるためです。

 にもかかわらず、私たちは(無神論者であろうとなかろうと)、権利上は神について考えることができます。しかしこの時、私たちは通常の「考える」とは別の「考える」を遂行しているのです。それこそ「祈り」にほかなりません。すなわち、ウィトゲンシュタインの前期思想において、世界が世界であることを保証する超越的な存在としての「神」への接触は、ただ「祈り」のみによって果たされることになるのです。

3.横のつながりとしての「祈り」

 このように、超越的な概念に対して「祈り」によって接触するという考え方は、哲学で検討され得る事柄であると同時に、先にも書きましたが、生来的な人間の営みとして自然な事柄であるとも言えるでしょう。

 しかしながら、今回の件は、天災ではなくて事件に該当します。超越的な存在が京アニを焼き払ったわけではなく、一人の容疑者が「京アニに自分の作品を盗用された」ことに怒りを覚え、度を超えた所業として放火に至ったわけです。もし、「超越的な存在に対し、祈りによって接触を試みる」という考え方が、今回の事件に適用されるとするならば、私たちはいったい、何を祈ったのでしょうか。

 祈った人たちは、「死んでしまった34人について生き返ってほしい」という気持ちで祈ったわけではないはずです。ここで考えなければならないことは、京アニ放火事件に関する「祈り」は、TwitterというSNS上でなされた、という点です。

 Twitter上で「#prayforkyouani」のハッシュタグを付けて呟くことによって、「起きてしまった事件に対しては無力だけれど、事件が起きた後にできるであろう何か、自分でもできるであろう何かをしてあげたい」という気持ちを表現することができます。これは、事件に対して心を痛めている自分を慰めているという点で、超越的な存在に対する「祈り」ではありません。飽くまで自分自身のための祈りです。

 しかしながら、その祈りは決して自己完結しているわけでもありません。というのも、ハッシュタグを通じて、私たちは見ず知らずの誰かが、同じように京アニのことに思いを馳せ、何かをしてあげたいという気持ちでいることに気付くことができるためです。起きてしまった悲惨な事件について、「祈り」という紐帯ちゅうたいを通じて、私たちはまた前を向くことができるようになるのですから。

以  上 

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