2024年02月12日:テレビドラマにおける“表現”の不可能性

1.はじめに

――(第二に、)タルコフスキーは私の原作にないものを持ち込んだのです。つまり主人公の家族をまるごと、母親やらなにやら全部登場させた。それから、まるでロシアの殉教者伝を思わせるような伝統的なシンボルなどが、彼の映画では大きな役割を果していたんですが、それが私には気に入らなかった。でも映画化する権利はもう譲った後だったから、いまさら何を言ってもタルコフスキーの姿勢を変えられる可能性はなかったんです。それで喧嘩別れになり、最後に私は彼に「あんたは馬鹿だ」とロシア語で言って、モスクワを発った。三週間の議論の後にね。その後彼が作ったのは、結局、なんだか、その、あんな映画だったわけです。

『新潮』、1996年2月号より抜粋(ただし、『ソラリス』(ハヤカワ文庫)より孫引き)

 「あんな映画」とは、アンドレイ・タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』を指しています。また、インタビュイー、及び、引用中の「私の原作」とは、スタニスワフ・レムと『ソラリス』とを、それぞれ指しています。

 スタニスワフ・レム(1921-2006)は、ポーランド領ルヴフ(当時。現在のウクライナ領リヴィウ)出身のSF作家です。1959年から1969年までの期間にかけて、『エデン』や『砂漠の惑星』といったSF作品により高い評価を得ますが、『ソラリス』もまた、レムの代表作の一つとして有名です。

 一方のアンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)は、旧・ソヴィエト出身の映画監督です。世界的に高い評価を受けている映画監督であり、上記で引き合いに出されている『惑星ソラリス』のほか、『鏡』や『ノスタルジア』などの作品で有名です。

 レムは文学の分野において、タルコフスキーは映画の分野において、それぞれ押しも押されもしない“巨人”かもしれませんが、そうであるがゆえに、『ソラリス』を原作として制作された『惑星ソラリス』は、レムにとっては納得のいくものにはなっていなかったようです。

 本年1月29日に、漫画家の芦原妃名子さんが、栃木県内で死亡しているのが見つかりました。芦原さんは、漫画『セクシー田中さん』の作者であり、同名のドラマが昨年より日本テレビ系列にて放映されています。

 すなわち、ドラマにおいて芦原さんは原作者の立場であり、上記の引用に即して考えれば、レムと同じ立場にあったわけですが、このドラマの脚本を巡り、蘆原さんは制作側との見解の相違について、SNSにおいて意見を表明し、さまざまな反響が寄せられていました。その後、芦原さんは一連の投稿を削除したのですが、今回の急逝という報道を受け、いわゆる“原作者”に当たることの多い漫画家や、原作の翻案を行う立場となることの多い脚本家など、さまざまな立場の人々が意見を発信しており、この記事を書いている時点において、今だに議論を喚起している状況にあります。

 レムとタルコフスキーの対立を引き合いに出して考えてみれば、原作者と製作者の対立は、古くて新しい問題であると見ることができるでしょう。この記事では、①対立が生じてしまう原因はどこにあるのか、②対立を回避するための方法は存在するのか、といったことを考察していきたいと思います。結論を先取りして言ってしまえば、①は必然的に生じる一方で、②も存在すると考えられる、という内容になっています。詳細は以下に述べます。

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