2020年05月06日:「100日後に死ぬワニ」の“可能であった生”について(3/3)

承前

 さて、この「可能であったもの」の考え方に基づいて、もう一度「100日後に死ぬワニ」の話を振り返ってみましょう。すると、ワニの1日目から99日目までの生が「可能であった」のは、当然に「ワニが100日目に死ぬ」という動かしがたい要因が存在しているためであることが、はっきりします。そして、そのような要因が機能するために、「サスペンス」という技法が取られていることが分かります。

 もし、「サスペンス」という技法が取られていなければ、「100日後に死ぬワニ」は、これほどまで注目を集めたでしょうか。1日目から99日目まで、ワニはありふれた日常を送ります。ところどころで事件はあるでしょうが、それは、ワニの人生(ワニ生?)を大きく変更するものではありません。100日目に、ワニは死にます。――しかし、辛抱強く100日目までコンテンツに付き合ってくれる鑑賞者は、ワニに対して義理でもない限りは、皆無でしょう。

 ここに「サスペンス」の技法が用いられることによって、作品はどう変わるでしょうか。鑑賞者は「主人公であるワニは、100日後に死ぬのだ」という、主人公のワニでさえも知らない情報を持つことになります。この時、1日目から99日目までのワニのありふれた日常は、鑑賞者の立場からすれば非日常へと変わります。「ワニは、100日目にはどうなってしまうのだろう?」という興味が、絶えず鑑賞者を掴むためです。

 もちろん、「サスペンス」ではなく、「サプライズ」という手法を使うことも可能です。すなわち、「100日後にワニは死ぬ」という情報を、鑑賞者だけでなく、ワニ自身も情報として持っている――という展開です。この場合、ワニの1日目から99日目までの行動は、100日目における「死」というイベントを回避するための行動になるでしょう。

 このような物語はもちろん可能ですが、そうなると「ワニの生が可能であったか?」という問いは、そもそも問いとして機能しなくなります。なぜならば、「100日後に、ワニは自らに課せられた運命から逃れ、生を獲得できるか?」が物語のテーマとなる以上、「ワニの生が可能であったか?」は、100日目を迎えない限りは、ワニ自身にも鑑賞者にも分からないためです。

 いきものがかりの楽曲『生きる』は、これらのことについての根本的な誤解から成り立っています。「100日後に死ぬワニ」は、「自分は100日後に死ぬ」ということは当然知らないはずです。したがって、ワニが「生きる」ことを強く意識しているはずはなく、「丁寧に生きよう」や「日常を大切にしよう」といった考えを、ワニが有する機会は、作中にはないためです。


 最後に、「100日後に死ぬワニ」のコンテンツについて、少しだけ触れたいと思います。

 性急な商業展開がなされたために、「100日後に死ぬワニ」は、ちょっとした炎上状態に陥り、2020年4月23日には、twitter上で話題にならなくなってから12日が経過するまでに至りました。

 このことをもって「100日後に死ぬワニ」は二度死んだ――と見る向きもあるようです。

 このように、既に場外で乱闘が発生し、何のために乱闘していたのか、乱闘の始まりが何だったのかさえ希薄になってしまった中で、「ワニの生が可能であったか?」ということを問うことは、ほとんど死体を掘り起こすことに近い行いかもしれません。

 その一方で、「100日後に死ぬワニ」が豊かな鉱脈を含むコンテンツであることは、紛れもない事実のはずです。それは「100日後に死ぬワニ」が、次の二つのことを私たちに示してくれているためです。――第一に、「100日後に死ぬワニ」は、「物語る」ということについて、私たちに何かを明らかにしてくれているため、第二に、「100日後に死ぬワニ」は、「生は繰り返され得ない。ただ見ることができるだけである」という言葉の真意を、私たちに示してくれているため。


以  上 


【参考文献】

  1. H・ベルクソン(原 章二 訳)(2013)『思考と動き』、平凡社ライブラリー
  2. ウィリアム・M・エイカーズ(シカ・マッケンジー 訳)(2010)『映画脚本100のダメ出し-傑作を生むハリウッド文章術-』、フィルムアート社

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする