2020年02月24日:むしろモラルでしかないことについて―「自殺者を撮影する」ことの問題―(2/3)

承前

 さて、JR新宿駅における電車との接触事故が発生した時には、事件後の2019年10月19日に、「なぜ人身事故をスマホで撮影するのか? 精神科医が、JR新宿駅「異例の放送」の背景を語る」というウェブ記事がエキサイトニュースに公表されています(https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzowoman_253431/、2020年1月7日閲覧)。

 記事の中で、精神科医の片田珠美氏は、「人身事故をスマホで撮影し、SNSに投稿」したがる人の心理を、3つの観点から説明しています。

 第一の観点は「撮影者は、自らの承認欲求を満たすために、遺体の写真をスマホで撮影した」というものです。経済成長が難しくなった近年では、仕事を通じて自らの承認欲求を満たすこともまた困難になったため、SNSにおいてセンセーショナルな写真・動画を投稿することにより、承認欲求を満たそうとする人が増えた、とのことです。

 確かに、SNSにおいてセンセーショナルな写真や動画が投稿されれば、それに注目が集まりやすいと思います。しかしながら、そもそも承認欲求(Esteem Needs)とは、「他人に自分の価値を認めてほしい」ということが原義となります。この原義に従って「SNSにおいてセンセーショナルな写真・動画を投稿すること」を考えるのならば、センセーショナルな写真・動画の被写体は、基本的には自分自身となるのが筋ではないでしょうか。

 もっとも、記事の中で片田氏は、「SNSならば、衝撃的な写真・動画を投稿することで、称賛を得ることができる。そうした形での承認欲求や自己顕示欲の表れ方が、ますます顕著になっている印象を受けます」と述べているため(傍線部筆者)、この記事においては、承認欲求と自己顕示欲とを同一のものと取り扱っているようです。もちろん、両者を明確に分かつことには困難がありますが、記事の中で例示されている「インスタ映え(インスタグラム上で人目を引く投稿)」は、被写体が撮影者自身であることが多いことを考えると、単に「刺激的な画像・動画をSNSに投稿すること」とは異なる心理が働いているのではないかと考えるべきではないでしょうか。

 したがって、単に「センセーショナルな写真・動画の投稿によって注目を集めたい」ということが動機であるということを踏まえると、「承認欲求」というよりもむしろ「自己顕示欲」と限定的に捉えた方が良いのかもしれません。

 第二の観点は「撮影者は、他人の不幸を眺め、むしろ自分の幸福を実感するために遺体の写真をスマホで撮影した」というものです。格差が拡大する近年では、欲求不満を覚えている人間が少なくない数で存在しており、他者がアクシデントによって不幸に見舞われると、「このように不幸な人と比べれば、自分は幸福だ」と、逆説的に自らを肯定する心理が働くのだ、ということです。

 記事の中でも指摘されているとおり「人の不幸は蜜の味」という言葉もあるくらいですから、そのような形で自己肯定感を高める人が存在することも不思議ではないと思います。しかし、単に「自分の方がマシだ」ということを認めるだけならば、特に写真を撮影する必要はありませんし、ましてやそれをSNSに投稿する必要性はないのではないでしょうか。片田氏は、「人の不幸は蜜の味」という心理から、「自分より不幸な人を撮影して、人の目に触れるネット上にアップすること」が発生すると述べていますが、そのメカニズムについては詳細を説明していません。

 もちろん、片田氏の挙げる観点は、「このような見方ができる」という考え方からの指摘ですので、そもそも詳細な心理メカニズムを説明する必要性もないのですが、特に第一の観点と、この第二の観点とは相補的であり、どちらかの観点から説明を試みた場合、もう一方の観点からは説明が難しくなるのではないかと考えられます。

 第三の観点は、「撮影者は、ほかの人がそのようにしているから、遺体の写真をスマホで撮影した」というものです。他人の行動が常態化しており、誰からも咎められていないがために、「自分もやっていいんだ」という集団心理に陥り、人身事故の現場を撮影していた人がいるのではないか、ということです。

 ここで、さりげなく「自分もやっていいんだ」と書きましたが、裏を返せば、第三の観点が成立するためには、「撮影者は、根本的に死体の写真を撮影したい欲求がある」ということを無条件に仮定しなければなりません。つまり、「撮影者は、根本的に死体の写真を撮影したい欲求があるものの、現場には大勢の人がおり、そのような行動にはリスクがあるため、リスクと便益とを比較衡量して、やらないのだ」ということを前提とする必要があります。

 この仮定を前提とした場合、撮影者は、現場に誰もいなければ、比較の対象とするべきリスクがないこととなりますので、必ず写真を撮影することになります。しかし、仮にリスクが全くない状況であったにしても、死体の写真を撮影しない選択肢を採用する自由が、撮影者にはあり得るのではないでしょうか。

 例えば、「死体の写真を撮影する/しない」という大げさな話ではなく、「信号を無視する/しない」ということを考えれば、「全くリスクがない状況であったにしても、自らにとって便益となり得る行動を取らない」という選択肢は、十分に考えられるわけです。

(続く)

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