2020年09月05日:小児性愛者の比類なき社会貢献について(1/2)

 小児男児を模したラブドールの購入・使用に関する一連の議論が、Twitterで話題になっています。

 このことに関して、四谷三丁目氏(https://note.com/yo_tsu_ya_3、2020年9月1日閲覧)という方が、「私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできる。“社会的責任”を茶化すのはマズいぜという話(https://note.com/yo_tsu_ya_3/n/neda17138f9f7、2020年9月1日閲覧)」というタイトルの、興味深い論考(以下「当該論考」といいます。)を投稿しています。

 本稿では、当該論考の内容を確認した上で、それがどのような意味を持つのかということを考察してみたいと思います。

 まず、当該論考において、四谷三丁目氏が提起した問題を確認してみましょう。それはタイトルにも書かれているとおりであり、結論を先取りすることにもなりますが、「フィクションに影響され(、)加害を実行に移す(ことの)危険性」を訴える論調が、Twitter上で過剰なまでに茶化され、揶揄されてしまう傾向にあることについての問題提起です。

 当該論考の趣旨を、順番に追っていきましょう。氏はまず、小児男児を模したラブドールの購入・使用者が、「小児性愛は“性的指向”である」と主張することについて、異議を申し立てています。

 この異議申立てを理解するためには、「性的シコウ」といったときに、「性的“指向”」と「性的“嗜好”」の二つの概念が存在する、といった知識を、補助線として持っていなければなりません(偉そうに書いていますが、私も当該論考で説明されるまでは、使い分け方をはっきりと理解していませんでした。)。

 まずは、「性的指向」について。法務省のウェブサイトでは、「性的指向(Sexual Orientation:セクシュアル オリエンテーション)」を、「人の恋愛・性愛がどういう対象に向かうのかを示す概念を言います。具体的には,恋愛・性愛の対象が異性に向かう異性愛(ヘテロセクシュアル),同性に向かう同性愛(ホモセクシュアル),男女両方に向かう両性愛(バイセクシュアル)を指します」と説明しています(法務省「性的指向及び性自認を理由とする偏見や差別をなくしましょう」、http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00126.html、2020年9月1日閲覧)。

 では、「性的嗜好」はどうでしょうか。レファレンス協同データベースのQ&Aを参考にすると、「性的嗜好」とは「様々な性の好みを意味する」とあります。また、当該記事では、「性的“指向”」について、「『志向』や『嗜好』ではなく、『指向』というという字を使うのは、人を好きになる感情は、自ら選んで「志す」ものでもなく、趣味や好みの問題でもないため。」と説明しています(伊万里市民2015-8「女性学から見て、「性的嗜好」と「性的指向」の表記の違いは何か?」、https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000180164、2020年9月1日閲覧)。

 例えば、ある女性Aさんが、男性を好きになるか、女性を好きになるのかは、「性的指向」の問題になります。ここでAさんが男性を好きになった場合、「性的指向」の観点からは、「異性愛者」に区分されます(厳密に言えば、「両性愛者」の可能性もありますが。)。さらにここでAさんが、「一口に“男性”といっても、年上よりは年下がいい」という意見を持っていた場合、それはAさんの個人的な性の好みに該当するため、「性的嗜好」と言うことができます。

 このような定義に基づけば、「性的指向」は「異性愛」、「同性愛」又は「両性愛」のどれかを指す概念であるため、ラブドールの購入・使用者が主張する「小児性愛」は、必然的に「性的嗜好」として区分されることとなります。

 さて、次に氏は、この「小児性愛」という性的嗜好が、犯罪になるということを主張します。

 と、ここに至って氏は、「犯罪」という言葉を繰り返し用いているために、読者にとっては、ややもすればつまずきの石になるかもしれません。もちろん、氏は手放しで「小児性愛は犯罪」と述べているわけではありません。続く文章で、氏は「小児性愛が犯罪になり得る理由」として「人権」を取り上げ、自論に対し手当を行っています。

 しかし、肝心の「人権」概念の掘り下げについては、「掘り下げるときりがないのでサックリといくけども、」、「ここですでに『?』な人は、ちょっとどうしようもないので自分で色々調べてくれ」と書かれているように、論を急ぐあまりに説明が割愛されています。

 しかし、当該論考における前段の肝は、「小児性愛という性的嗜好は、犯罪になり得ること」を明らかにすることにあります。「小児性愛という性的嗜好」と「犯罪」との間に「人権」という概念が横たわっている以上は、その説明を避けて通ることはできません。

 というわけで、「人権」の概念をおさらいしてみましょう。平たく言ってしまえば、「人権」とは「『人である』ということだけを理由として認められる権利」ということができます。より具体的に言えば、人権とは、「個人が保有している生命・自由・財産は、何人にも侵害されない」という権利を指します。

 「何人にも」というと大げさに聞こえますが、「人権」概念の黎明期において、「何人」として想定されたのは「国家権力」です。つまり、「国家」という強大な権力により、個人の生命・自由・財産が損なわれないための権利こそが「人権」なのです。

 近代的な人権思想の元祖のひとつは「フランス人権宣言」ですが(もうひとつは「ヴァージニア権利章典」)、これはブルボン王朝という「国家権力(絶対王政)」に対して、「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する(第1条)」ことを主張した宣言です。

 ところで、この「フランス人権宣言」には、あるレトリックが仕込まれています。というのも、第1条で言うところの「人(homme)」とは“(フランス本国の)成人男性”のことだけを指しているからです。したがって、女性と子供、そして植民地の人々は、この「人権」の対象から必然的に外れることとなりました。

 この状況、特に「子供の人権」が認められるようになるのは、フランス革命から200年もの歳月が流れた1989年、国連総会で「子供の権利条約(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html、2020年9月1日閲覧)」が採択された時となります。この条約の前段では「児童の権利に関する宣言において示されているとおり『児童は、身体的及び精神的に未熟であるため、その出生の前後において、適当な法的保護を含む特別な保護及び世話を必要とする。』ことに留意」することが書かれており、第34条では、「性的搾取及び性的虐待から児童を保護」することが謳われています。

 このように、国際的に見ても、子供には子供としての権利が確約されており、「性的搾取及び性的虐待から保護」されることは、子供が主張できる正当な権利として位置付けられています。

 さて、このように「人権」の概念を振り返ってみれば、どうして「犯罪」ではなく「人権」にまでこだわって説明する必要があるのか、また、なぜ「小児性愛」という性的嗜好が「犯罪」と結び付けて論じられるのかということは、自ずから明らかになるでしょう。「小児性愛」の性的嗜好を有する者が、自らの性的嗜好を充足する目的で、児童を性的なターゲットにした場合、その小児は「性的搾取及び性的虐待から保護される権利(人権)」を損なわれることになるためです。

 さて、話を当該論考に戻しましょう。氏は、「小児性愛」という性的嗜好を有すること自体を拒むことはできないものの、そのような性的嗜好を有していることを表明した場合、子供を潜在的に加害する可能性が高いのではないか、そうである以上、そのような言動は厳に慎むべきである、ということを主張します。

 その上で、氏は「小児型ラブドールの所持・使用が、実際の児童性的加害へ繋がるのか?」という問いを、新たに提起します。ここで氏は、それはケースバイケースであり、性的加害の欲求が抑制されることもあれば、欲求が助長されることもあり得る、と述べ、悪い影響が生じ得る以上は、それを危惧する声が出てくることは当然なのだから、そのような論調を茶化したりするのではなく、真摯に向き合うべきではないか――という趣旨を述べ、論考を締めくくっています。

つづく

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