2019年08月03日:フェイクニュースの是非、または意味の底について

 愛知県内で開催されている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の展示物が、SNS上で話題となっています。

 Twitterのトレンドによると、あいちトリエンナーレでは、「昭和天皇の写真を焼く作品」や「安倍首相及び菅官房長官をハイヒールで踏みつけている作品」などが展示されているため、一部から「反日的な展示であり、税金によって賄われている芸術祭にふさわしい展示ではないのではないか」という批判が挙げられていました。

 しかし、このニュースには続きがあります。Twitterで物議を醸すようになってから間もなく、批判の矛先が向けられていた一部の作品については、「そもそも、あいちトリエンナーレに展示されている作品ではない」ことが明らかになりました。

 その作品とは、竹川宣彰さんの「Eat this sushi, you piece of shit」という作品であり、要するに「安倍首相及び菅官房長官をハイヒールで踏みつけている作品」なのですが、これは、2017年7月に香港で開かれた展覧会 Beyond Freedom」で展示された作品であり、あいちトリエンナーレに展示されているものではないとのことです。

 さて、今回の件に限らず、インターネット上では「不確かな情報が、事実と誤認されて取り扱われる」という事態が頻発しています。このような事態は、出回った情報そのものも含めて「フェイクニュース」と呼ばれており、熊本地震の時に「動物園からライオンが脱走した」という虚偽の情報をSNSに投稿し、20歳の男性が逮捕されているという有名な事件があります。

 SNSは、情報の共有が容易であり、不用意な投稿であっても、利用者にとって刺激的な投稿は、瞬時に拡散されやすいという特質を有しています。このようなフェイクニュースが拡散され、後に事実でないと明らかになるたび、「フェイクニュースが投稿されないようにするべき」という主張が各方面から展開されるようになります。

 しかしながら、「フェイクニュースの投稿の規制」といったことは、果たして可能なのでしょうか。私は、「SNS上に投稿されたコンテンツである」という性質上、フェイクニュースの流布を防ぐことはできないのではないか、と考えています。

 SNSの利点は、「誰しもが、匿名で情報の発信者となり得、誰しもが有名人になり得る」というところにあります。と同時に、このSNSの利点は欠点と表裏一体であり、「発信された情報の信憑性が分からない」という根源的なリスクを抱えています。

 この根源的なリスクを可能な限り低減させるためには、「信頼できる情報発信元を確保する」ことにありますが、ことSNSの場合、「信頼できる情報発信元の情報」と「未確認情報」の両者が混在することが往々にしてあり得、また、情報源の取捨選択が、全て情報の受け手に委ねられているために、「未確認情報を無条件に信頼する」利用者も一定数存在します。

 特に、一部のSNSのユーザーは、他のユーザーに対して情報発信力が強い(一般に「インフルエンサー」と呼ばれています)ため、そのような発信者がフェイクニュースを拡散させてしまうと、瞬く間にフェイクニュースが広まり、ぶちまけたミミズ缶のように収集がつかなくなってしまいます。

 このようなネットワークの環境を鑑みると、フェイクニュースの発信そのものを防ぐことは不可能だと考えられます。地道な取組となってしまいますが、SNSの利用者がインターネットリテラシーを高め、情報の取捨選択能力を向上させる以外に、フェイクニュースの拡散を防ぐ方法はありません。

 ところで、私たちはどうして、「何かを信じる」ことができるのでしょうか。――人は権利上、身の回りの一切を疑うことができます。そうである以上、私たちが何かを信じている時とは、要するにどこかの段階で疑うことを諦めているということにほかなりません。

 数について全く知らない生徒に対して、教師が数を教える場面を仮定します。教師はまず、0,1,2,3,……という自然数を教え、次にその自然数(n)の数列を2倍して並べた数としての偶数(2n)を、2倍して1を足した数としての奇数(2n+1)を教え、生徒はそれを理解したとしましょう。そして、このような訓練は、全て1,000以下の数の集合の中でなされたとしましょう。

 いま、教師は、初項が0,公差が2である数列(0から始まって、2ずつ増えていく数列)を生徒に書き続けさせるとします。そして生徒は、1000を過ぎてから、1000,1004,1008,1012,…と書いたとしましょう。教師はこれを見て、「あなたがやっていることは違う。私は、0から始めて、2ずつ足していくように言ったのだ」と言うでしょう。このとき、生徒が次のように答えた場合、教師はどうすればよいでしょうか。生徒は次のように答えます;「しかし先生、私は先生のおっしゃるとおりにやったのですが」と。――実は生徒は、教師の命令を「1000までは2を足し、1000以降は4を足す命令」として理解していたのです。

 教師が直面する問題は、極めて根源的です。第一に教師は、生徒がなぜ誤っているのかということについて、言葉で説明することができないためです。仮に生徒に説明しようとするのならば、教師は「あなたはどうして違うことをやっているのか」、「1000まで計算していたのと同じ方法で、1000から後の数を計算しなさい」、「規則的にやらなければならない」などと説明しなければなりません。しかしこの生徒にとっては、1000から後の数について4を足すことは、「同じ方法」であり「規則的」であり、決して「違うこと」ではないためです。このとき、生徒は教師との関係性において、「同じ」や「規則的」という概念の把握の仕方が異なっており、しかもその差異について、生徒自身は何も疑問に思っていないのです。

 そして第二の問題として、生徒が誤っていることを説明することができない以上、そもそも教師自身が正しいということを担保する手立てもないのです。

 上記に示した問題――規則問題といいますが――は、分析哲学の始祖ともいえるルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインが考察した問題です。ウィトゲンシュタインはこの問題を手がかりとし、私たち人類は「人間の島」にいること、すなわち、私たちにとっては限りなく自明であり、限りなく自然史的であり、限りなく現実であり――しかし限りなく自然からは遠い制度――の内側で存在しているということを明らかにしました。

 そして、私たちがこのように自らの正しさを証明できないということは、翻って考えてみれば、どこかの段階で、「疑わしい何か」を「正しいもの」と見なさなければということを意味しています。フェイクニュースが流布している昨今の現状は、私たちにこの「正しさ」に関する難しい問題を提起しているのではないでしょうか。

以  上 

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