2019年12月24日:「100日後に死ぬワニ」の滑稽さと不気味さについて(3/3)

承前

 ベイトソンの“枠”という概念を足場として、ベルクソンの“滑稽さ”とフロイトの“不気味さ”を眺めると、どのようなことが分かるでしょうか。

 まずは、ベルクソンについて。くしくもベルクソンは『笑い』の中で“枠”に言及しています(もっとも「“枠”とは何か」について具体的には定義を行っていませんが)。ベルクソンは、それ自体がおかしみを生み出すような、特殊なものがこの世に存在しているわけではなく、それらの特殊なものが、何かしらの枠に入り込んでしまったために、滑稽さが生まれてくるのだ、と指摘しています。

 例えば、校長先生とか、そのほか偉い人の話を静かに聞いているうちに、ふと、その人たちが会話の合間に挟む「まあ」とか「ええっと」とかいう言葉が耳につき始め、次第に「一体何回『まあ』とか『ええっと』とか言うのだろう」と数え始め、それが面白くなってしまう……という経験は、誰にでもあるのではないかと思います。面白くなってきてしまうのは、偉い人自体が面白い性質を内側に秘めているからではありません。言うなれば、「会話の合間に、何度同じ言葉を挟むのか数えるゲーム」という枠内に、「偉い人の話」が入り込んでしまうから、面白くなってくるわけです。

 今度は反対に、“枠”を手掛かりとした場合、フロイトの“不気味さ”はどのように説明できるでしょうか。ジリボンは、「枠の不在」という状況が、“不気味さ”を成立させるための条件であると論じます。

 フロイトのイタリア旅行のエピソードを、もう一度考えてみましょう。初めこそフロイトは「イタリア旅行における小さな町の散策」という枠内で行動していましたが、道に迷ってしまったことを皮切りに、その枠から外れてしまいます。こうなると、フロイトにはもはや安全な“枠”は存在しません。別の“枠”に入り込むまで、フロイトにとっては「元の場所に戻る」までは、不気味な状況が続くことになるのです。

 さて、このようにして見てみると、「100日後に死ぬワニ」が、一種の「不気味なもの」として受容されていることについても、自然と理解が及ぶのではないかと考えられます。つまり、初めは「四コマ漫画」という枠内で、主人公のワニのことを眺めていた読者は、いつしかその「四コマ漫画」という枠から振り落とされ、不気味な状況に宙づりにされてしまっているのではないでしょうか。「死ぬまでXX日」という記載が、四コマ漫画の枠外に書かれていることも、ある意味象徴的に思えます。

そして、次の枠を見つけるまで、この不気味さは継続することになります。――「ワニの死」又は「自分の死」という枠に滑り落ちるまで。

 ですが、自分たちが死ぬことについて、不用意に怯える必要も、心配する必要もありません。「100日後に死ぬワニにいいねした7万人のうち、200人は統計上100日後までに死んでいる」らしいのですが、率で言えば0.2%に過ぎません。

 こんなことを言うと、「いや、確かに0.2%かもしれないけれど、ほかならぬ“この自分”が死ぬわけなのだから、1分の1じゃないか」と考えてしまう人もいるかもしれません。しかし、日常的に考えれば、0%であろうが0.2%であろうが誤差の範囲ですし、無事にワニの死を見届けたとしても、101日目には死んでしまっている可能性だってあるわけです。

 「生の哲学」で有名なベルクソンは、『笑い』の中で、「生は再構成されるものではない。それはただ見ることができるだけである」と述べています。「『100日後に死ぬワニ』に不気味さを感じる」ということは、裏を返せば「それを『不気味だ』と感じる、“ほかならぬこの私”は生きている」ということに繋がるはずです。だとすれば、その“不気味さ”の感覚を大事にして、ワニの100日後を見届けられるよう、生を謳歌する姿勢が大切なのではないでしょうか。

以  上


【参考文献】
 H.ベルクソン/S.フロイト(2016・原 章二 訳)『笑い/不気味なもの 付:ジリボン「不気味な笑い」』、平凡社ライブラリー

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