2020年04月29日:「100日後に死ぬワニ」の“可能であった生”について(2/3)

承前

 ところで、この問いかけは、非常に奇妙な問いかけだということができるでしょう。そもそも、生が可能でなければ、ワニは四コマ漫画の連載初日から100日目まで生きながらえることなど到底できないはずなのですから。しかし、このような見方をもって「100日後に死ぬワニ」を眺めている時、私たちは、「ワニの生を先取りして考えてしまっている」という事実を見落としています。

 以前投稿した記事において、私は、物語における「サスペンス」の構造について紹介しました(「ネタバレとサスペンスについて」、https://kaiyugyoko.jp/blog20200321/)。「100日後に死ぬワニ」も、サスペンスの構造から読み解くことが可能です。

 サスペンスの構造において特に重要なことは、「物語内にいる登場人物よりも、物語の読み手の方が、より多くの情報を有している」という点です。「100日後に死ぬワニ」では、当然「主人公のワニは、100日後に死ぬ」ということが、登場人物と読み手との間で有している情報の格差になります。このとき、当たり前のことですが、主人公であるワニ自身は、よもや自分が100日後に死ぬとは思っていないわけです。

 と同時に、ワニ自身の立場に寄って立つとき、私たちはすぐに、「主人公のワニは権利上、100日目に死ななくても良い自由がある」ということに気付くはずです。「100日後に死ぬ」という物語上の制約を一旦カッコに入れて考えれば、ワニは1日目に世をはかなんで自殺することも可能ですし、1,000目に隕石の衝突に巻き込まれて死ぬこともできるはずです。要するに「ワニの死」は、決してワニの生から派生したものではなく、飽くまでワニの生の枠外からもたらされた外圧である、と考えるほかに道はないわけです。

 ここで、フランスの哲学者であるアンリ・ベルクソンが、第一次世界大戦中に新聞記者から「文学の将来」について求められたエピソードと、それについてのベルクソンの考察とを引用してみたいと思います。「100日後に死ぬワニ」の“可能であった生”を考察するに当たって、示唆に富む内容になります。

 「文学の将来」について、新聞記者から尋ねられたベルクソンは、「そんなことは考えていない」と答えました。これに対し、新聞記者は「少なくとも哲学者として、可能な予見くらいはできるのではないですか。例えば、明日の(ここでは、具体的な意味での「翌日」というよりも、「今日ではないが、近い未来」という意味での「明日」という意味で捉えてください)演劇作品などはどうでしょう?」と食い下がります。するとベルクソンは、「明日の演劇作品がどんなものか分かれば、自分で書きますよ」と言って、記者を驚かせてしまいます。

 驚いている新聞記者を前にして、ベルクソンは次のようにやり取りします。

「しかし、あなたの言われる作品はまだ可能ではありませんよ」。――「でも、やがて実現される以上は可能でなければならないでしょう」。――「いいえ、可能ではありません。せいぜい可能であっただろうということが言えるだけです」。――「それはいったいどういうことですか」。――「ごく簡単なことですよ。才能のある人か天才が出現して作品を創造する。するとその作品が現実のものとなり、そのことによって回顧的あるいは遡及的にこの作品が可能になるということです」

H・ベルグソン(原 章二 訳、2013年)『思考と動き』、pp.154-5

 このことについてのベルクソンの考察は更に続くのですが、エッセンスを示すという意味では、上記の引用だけでも十分でしょう。新聞記者は、「未来の作品」というものが未来の中に埋もれており、時間が経ち、その「未来」に到達することによって、作品が掘り起こされる、というようなイメージを前提に話をしています。ところで、このような考え方は、私たちが一般に想定する「未来」の考え方と同一です。すなわち、「未来の作品」に繋がる動線は、過去から現在に至るまでの時点から通じているものである……という考え方です。

 しかし、ベルクソンはそのようには考えません。まず、作品が表に出るわけです。そして、その作品の登場に驚いた人々(作者自身も、その中に含まれています)が、過去を振り返って、「そういえばこんなエピソードが昔あったけれど、このエピソードが背景にあるからこそ、この作品が生まれたのだ」と解釈することになります。「懐古的あるいは遡及的にこの作品が可能になる」とベルクソンが言うのは、このような意味においてです。

 より、分かりやすいエピソードに置き換えて考えてみましょう。

 1976年にタイムスリップしてみよう。当時の人に「どんな映画が見たい?」と街頭インタビューしたら、こう言うはずだ。「わからんなぁ。『ジョーズ』みたいなやつかな。あのサメは、すごかったもんねぇ」。

 この人は、『ジョーズ(75)』を見てすごいと思っただけなのだ。本当はもっと別の、すごい映画がみたい。ただ、口で説明できない。だって、見たこともない映画を口で説明しろと言われても! 結局「こういうのが見たい」と翌、1977年の世間が求めたのは『スター・ウォーズ』だった。

エイカーズ(シカ・マッケンジー訳、2010年)『映画脚本100のダメ出し -傑作を生むハリウッド文章術-』、p.19

 街頭インタビューされた人は、1976年時点では、当然に『スター・ウォーズ』を見ていないわけです。だからこそ、「どんな映画が見たい?」と尋ねられても、「見たこともない映画を口で説明」できないために、「『ジョーズ』みたいなやつ」と、その時には言うしかないのです。

 しかし、1977年に『スター・ウォーズ』が上映された後、この街頭インタビューされた人は、『スター・ウォーズ』が上映されるに至るまでの伏線は、何らかの形で1976年時点までに用意されていた、と考えるようになるでしょう。すなわち、1977年における『スター・ウォーズ』上映時点を足場にして、「過去に、『スター・ウォーズ』に至るための道筋は確かにあったのだ」と、遡及的に考えるようになるのです。したがって、「1976年時点で『スター・ウォーズ』は可能である」と言うことは不可能であり、「1977年に『スター・ウォーズ』が上映されていることを前提とした上で、この映画は、それ以前において可能であったのだ」ということができるわけです。

続く

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