2019年08月10日:教養小説としてのなろうテンプレ(再掲)

 「「ハリー・ポッター」は『ルールなき闘争の時代』の教養小説である(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59860)」という興味深い論考(以下「論考」といいます)があったため、この論旨を頼りに、小説投稿サイト”小説家になろう”におけるテンプレート的な小説(以下「なろうテンプレ」といいます)を、教養小説として素描する――という、無謀な試みをやってみたいと思います。

 さて、いきなり素描に取り掛かる前に、まずは「『なろうテンプレ』とは何か」、「『教養小説』とは何か」をはっきりさせておかなければなりません。この準備は、一見すると、前者を明らかにする方が、後者を明らかにするよりも簡単なように思われます。

 しかしそれは、飽くまで本論を読んでいる人も、書いている人も、大なり小なり(あるいは、良きにつけ悪しきにつけ)「なろうテンプレ」の射程の範囲内で自分の読む(書く)コンテンツを位置付けているからであり、「なろうテンプレ」という現象について全く検討がなされていない現状を鑑みると、すでに学術的な蓄積のある「教養小説」を定義することの方が、はるかにたやすいことでしょう。

 そして、このエッセイの筆者もまた、「なろうテンプレ」を明示できるほどの力量はありません。したがって、差し当たっては「なろうテンプレ」を「『①現実世界で不遇をかこっていた主人公』が、アクシデントによって異世界に転移し、『②その異世界内で特殊な権能を贈与され』、『③異世界内で自己実現を果たす』小説」として定義したいと思います。

 次に、「『教養小説』とは何か」という点について、先に挙げた論考を頼りに、その系譜というものを辿ってみたいと思います(なお、本稿では英文学における「教養小説」のみを検討の対象としています)。イギリスにおける教養小説の嚆矢とされているのが、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(1847)です。『ジェイン・エア』の梗概については省きますが、その結末で、主人公にして、平民であるジェインは貴族であるロチェスターと結ばれることとなります。

 しかし、論考の中では、『ジェイン・エア』の中では、ジェインの内面的な成長が描かれているだけでなく、彼女の叔父がポルトガル領マデイラ諸島での貿易で築いた富により、平民だったジェイン自身が経済的・階級的にもロチェスターと対等になる点について指摘されています(論考の2ページ目)。「精神的な対等」だけでなく「経済的な対等」が要請されているのが、19世紀における教養小説の特徴であり、「経済的な対等」を可能にする物語の要請は「遺産プロット」と呼ばれています。「遺産プロット」は、同じく教養小説である、ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』(1850)や『大いなる遺産』(1861)にも当てはまります。

 ですが、20世紀に入ると、このプロットが当てはまらなくなってきます。それは、「労働者階級の中でも優秀な子供に奨学金を与え、中等学校さらには大学に進学させることが制度化されていく」という、イギリス固有の時代的背景によるものです。つまり、19世紀時点では「精神的な階級上昇」だけでなく、「経済的な階級上昇」もまた、「教養小説」における重要な要件だったわけですが、「低い階級の出身者であっても、優秀な子供には、経済的な階級上昇のための仕組みが整備される」ことにより、「教養小説」における「経済的な階級上昇」の要件が緩和されることとなったのです。

 と同時に、優秀さゆえに階級上昇の機会を与えられた奨学金少年/少女は、従来のコミュニティから疎外されるだけでなく、自分よりも上の階級のコミュニティからも阻害されることとなります。しかしこのことは、コミュニティとしての労働者階級から身を引き離し、個人として生きていくという成長物語を可能にします。これにより、教養小説は、「精神的な階級上昇」、すなわち「精神的成長」にその特徴が純化されることとなったのです。

  論考ではこの後、メリトクラシー(能力主義、実力主義)や新自由主義について言及されていますが、これについては省略します。いずれにせよ、論考ではメリトクラシー(能力主義、実力主義)及び新自由主義について言及した上で、『ハリー・ポッター』が「イギリスにおける教養小説の最新版」であるということを主張します。長いのですが、重要な箇所となりますので、余さずに引用します。

 『ハリー・ポッター』シリーズは、19世紀的な教養小説のおなじみの道具立てをみごとに利用している。主人公のハリーは孤児であり、叔父・叔母の家に引き取られているが、階段下の物置に押し込められ、従兄弟にいじめられて惨めな日々を過ごしている。ここまで、『ジェイン・エア』と寸分違わず(は言い過ぎだが)同じである。 そして、『ハリー・ポッター』は遺産プロットでもある。突然に届くホグワーツ魔法魔術学校への入学許可証が「隠された遺産」だ。ハリーはそれによって「本来の階級」を回復する。彼はどこの馬の骨ともつかない孤児などではなく、闇の魔法使いヴォルデモートを唯一撃退した魔法使いを両親としたことが明らかになるのだから。
 ところがそこから先で、『ハリー・ポッター』が学園ものとして展開していくにいたって、この作品は教養小説から逸脱して、20世紀的な奨学金少年物語へとシフトしていく。  ホグワーツ魔法魔術学校は、パブリック・スクールやグラマー・スクールの一部を明らかにモデルとしているが、ハリーはそこで身分違いの疎外感を克服せねばならない奨学金少年となる。ハリーと他のエリート(ドラコ・マルフォイら)との差異は、奨学金少年的な経験そのものだ。

論考の6ページ目

 論考はこの後も続きますが、このあたりで区切ります。引用部から見えてくるのは、『ハリー・ポッター』の物語そのものが、英国の教養小説の系譜に忠実に則った物語である、という特徴です。

 そして、「教養小説」の縮図として『ハリー・ポッター』を眺めたとき、「なろうテンプレ」もまた、『ハリー・ポッター』に類するところ、もっと言えば、「教養小説」に類するところを認めることができるのではないでしょうか。

 まず、「なろうテンプレ」における主人公は、物語の開始時点では、大して恵まれていません(①)。その後、アクシデント(大抵はトラックにはねられて死ぬ。)により、異世界に転生します。しかし、転生の過程、又は転生後に、贈与者(大抵は神)により、異世界内で特殊な権能・属性を付与され(②)、異世界内で物語が進むに連れ、主人公の階級は上昇を続けます(③)。そして、階級が上昇するにつれ、主人公は自分よりも上位の階級のコミュニティと、軋轢があったりなかったりする……というところが、「なろうテンプレ」の展開のスタンダードなところではないでしょうか。

  このような見方に立つと、「なろうテンプレ」小説の結末までも、ある程度見通すことができるのではないかと考えられます。メリトクラシー(能力主義、実力主義)及び新自由主義については、本稿では省略しましたが、『ハリー・ポッター』においては、「魔法省奥深くまで巣くった悪と戦」い、「ヴォルデモートとの対決の物語は学園の外側でのルールなき闘争」うことは、いずれもメリトクラシー(能力主義、実力主義)及び新自由主義の物語観に沿うものであるとのことです。教養小説という観点から、自分が読んでいる(又は書いている)「なろうテンプレ」を見直してみれば、豊かな鉱脈が眠っていることに気付くことができるのではないでしょうか。

以  上