2019年7月13日:神は細部に宿る(再掲)

 中公新書の『批評理論入門』を読んで以来、文学理論に興味を持つようになり、岩波文庫の『文学とは何か―現代批評理論への招待―(テリー・イーグルトン著、大橋洋一訳)』を読みました。

 その中に「構造主義と記号論」について取り扱われている箇所があり、個人的な感慨にふけっていました。

 公募に挑戦している方も多いと思われますが、その中でもウラジーミル・プロップや『昔話の形態学』といった書物を知っている人は一定数いるのではないかと思います。

 学生時代、構造主義について齧っている際に、このプロップの著作を読み、個人的に大きなショックを受けたことを今でも覚えています。ストーリーテリングを一種の秘術めいた立場から一気に卑近なものに近づけたことの意義については評価保留としたとしても、「物語までもがシステムになってしまうのか」ということの衝撃は、私にとって結構大きなものでした。

 作品の中身にかかわらず、純粋に「小説を書く」という行為に楽しみを見出している人が少なからずいるはずです。自分の想像力のはけ口として、小説という手段を選ぶ人がいるはずだからです。しかしそのような行為そのものが、既にある種のシステムにしたがっているのだとしたら、果たして書き手の「書く」という行為にはいったい何の意味があるのでしょう――。当時の自分の中に、そのような考えがよぎりました。

 ですが、今となっては、構造主義だけで作品を語ることはできない、と考えるようになりました。なるほど確かに物語の物語り方には規則があるかもしれません。しかし、同じ物語の枠組みを与えたとして、与えられた十人はそれぞれが十個のまったく異なる作品を書くはずです。「神は細部に宿る」と言えば言い過ぎかもしれませんが、同じ題材を別々に扱うという、その扱い方の中に個性が存在するのではないでしょうか。

 構造主義の考え方が書き手に示してくれることには大きな価値があるはずです。ですがそれ以上に、構造主義は書き手の個性を過度に要約してしまうことになるのではないか、と私は考えます。


※ このブログは、2014年10月13日に、小説家になろう上に掲載した同名の活動報告と同内容となっております。