2020年02月25日:むしろモラルでしかないことについて―「自殺者を撮影する」ことの問題―(3/3)

承前

 以上のとおり、「死体の写真を撮影すること」を促す心理的な要因について、片田氏の提示した3つの観点を確認しました。3つの観点は、それぞれが相補的な関係にあり、今回の事件を無理のない範囲で説明するためのものとして最上のものではないかと思います。

 続いて、「死体を発見した時に、それを撮影する」という行動は、「モラルのない行動」なのかどうか、という第2の点について考えてみたいと思います。

 前掲の記事の中で特に注目するべきは、片田氏はこの事件に関し「残忍な欲望は根源的なものなので、『現代のモラル低下』とは必ずしも言い切れない」と評価をしていることです。片田氏は、ローマの詩人・プラウトゥスの「人間は人間に対して狼である」という一節を引きながら、「他人の不幸を見たい」ことは、人間の根源的な欲望であり、これまではそのような欲望が抑圧され続けていたものの、近年に至って欲望は再び表出するようになった、と主張しています。

 片田氏は、欲望を抑圧・制限するメカニズムとして、記事の中で「経済の発展」、「社会の安定」及び「世間という概念の浸透」の3つを提示しています。すなわち、経済が発展し、社会が安定しつつあり、世間の目が行き届いていた時代には、人間の根源的な欲望は抑圧され、表に出ることはなかったものの、経済が停滞し、社会が不安定になり、世間という概念が希薄になった近年において、欲望が解放され、表に出るようになった、という理屈です。

 しかしながら、この説明には奇妙な点が一つあります。上記の説明は、例えるならば「欲望」をなみなみと湛えた巨大なダムがあり、ダムの水は「経済の発展」・「社会の安定」・「世間」と名付けられた調整弁でせき止められているが、ひとたび3つの調整弁が機能不全に陥った瞬間、せき止められていた大量の欲望が一気に噴き出してくる……というようなイメージを私たちに喚起します。ところで、そもそもそのような欲望の調整弁としての機能が期待されている概念こそが、「モラル」なのではないでしょうか。片田氏は自らの主張の中で、「モラル」と「経済/社会/世間」を峻別していますが、肝心の「モラル」については定義を行っていません。片田氏の主張は、定義していない曖昧な概念をそのままにしているがために、本来ならばその概念として特定されるべき事項を、その概念とは別のものとして取り扱ってしまっている印象を私たちに与えます。

 それでは、「モラルとは、経済、社会そして世間のことである」と特定してしまっても良いのでしょうか。――これは、一筋縄ではいかない問題です。本論の出発点に戻りましょう。私たちはこれまで、「自殺者/事故死者の写真を撮ることは、モラルのない行動か」と「モラルの不在」にスポットを当てて考察を進めてきました。ここで今、定義しようとしていることは、「不在となっている『モラル』とは、そもそも何か」という点です。

 もし、「モラルとは、経済、社会そして世間のことである」と定義した場合、「モラルがあった」時とは、どのような時代(または、どのような時点)を指すのでしょうか。具体的に「モラルのあった時代」を特定するつもりはありませんが、恐らくそのような時代は必ず「今ではない時」として想定される時代ではないか、と考えられます。

 なぜ、モラルは「今ではない時」にしか出現しないのでしょうか。このことを考えるためには、フランスの哲学者である、ウラジーミル・ジャンケレヴィッチの「消えゆく出現」という考え方が参考になります。ジャンケレヴィッチは、道徳を「消えゆく出現」を、その特徴として持つということを説きました。「なにか一つの行為がなされ、それが道徳的な行為として気付かれたとき、その行為は道徳として死んでいる」ためです。この考え方を手掛かりにすると、「モラル」は必ず「今ではない時」にしか確認できず、「あの時代にはモラルがあった」のような、絶対的な言い方はできない……と言うことができるのではないでしょうか。

 このように考えてみると、すなわち「モラル」とは、それが不在になった時に初めて取りざたされる概念である、と言えそうです。――本論の問いは、ここで一巡しました。首吊りの自殺者が撮影された時、又は人身事故の犠牲者が撮影された時、多くの人は「モラルのなさ」に憤りを覚えたはずです。しかし、「死体を撮影する」という行為が、どのような心理的作用によるものなのかはさておき、そのような行為自体は、「消えゆく出現」としての「モラル」を浮き彫りにするという特性を有していたのではないでしょうか。このように考えてみると、奇妙な話ですが、「死体を撮影する」という行為自体は、むしろモラルそのものであった……と言うことさえできてしまうのではないでしょうか。

◇◇◇

 ところで、死体を撮影した人たちは、撮影するという行為をもって、何を確認したかったのでしょうか。片田氏の提示した3つの観点を紹介しましたが、筆者はここでもう1つの観点を考えてみたいと思います。

 なぜ、人々は死体の写真を撮影したのでしょうか。死体が物珍しかったからでしょうか。――このことは、おそらく間違いのないことでしょう。しかし、死体の写真を撮影することは、「珍しいものを見たかったから」という素朴な情動によるものではなく、むしろ「死体が物珍しい」という状況そのものに対して、一部の人が「ある事実」に気付き、機敏に反応したためではないでしょうか。

 「ある事実」とは何か? ――つまり、私たちはこの世界で死ぬことができるということ。このように平和で、清潔な世の中であっても、死は私たちの身近にあるのだ、ということ。

以  上 

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コメント

  1. 囘囘青 より:

    沢庵美味さん

    コメントありがとうございます。

    >その実、読者の反応をほとんど、或いは全く必要としていないような……。
    (奇妙なものの言い方ですが、)ご指摘のとおりです。私がエッセイとしてものしている、時事に関わる記事の大半は「断罪」がテーマとなっております。
    有り体なものの言い方をすれば「逆張り」であり、世の中の人々が主張するであろうことの真逆のようなこと主張することで、「何か」をつまびらかにしたい。
    その「何か」を巡って、恐らくは回遊魚のように世の中の話題を繰り返し巡っていく……というコンセプトになるのではないかと思います。

    内容からして、ともすれば不快に見える記事を投稿してしまうかもしれませんが、
    私は人間の本姓は善だと信じているので、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。

  2. 沢庵美味 より:

    いつも興味深い論考を有り難うございます。
    落ち穂拾いのエッセイを読んでいて感じたのですが、どれも「作品」として完成されていて、読者に対する声明の装いをしながら、その実、読者の反応をほとんど、或いは全く必要としていないような……。

    となると、これら「作品」の営為は作者から作者へと向かうことになり、自己閉鎖的であり、これを読者の側から見ると、「自分には関係のないもの」であり、且つ「停止したもの」である。こうした性質は、「他人の自殺死体」にも通ずるものではなかろうか。となれば、当該作品を楽しむ私は、きっと、物珍しい「死体」を目に収めようとする衆人と同じ心理を共有しているのであろう。ところで、知的活動は崇高なものと古今東西の文化で認められるところであり、論述はその代表的な表徴とするに申し分ないと思うが、私が論述を好むのはこの崇高さに少なからず由来するのは間違いない。そして、これを前述した衆人の心理に類推して良いものならば、衆人は死体にある種の崇高さを感じていると言えないだろうか。確かに、崇高とは、「手の届かない」ことなのだ。即ち、愚者にとっての智、生者にとっての死。

    とまあ、お目汚しの冗談、失礼をば致しました。
    改めて、興味深い論考を有り難うございます。
    今後とも楽しみにさせていただきます。