2019年07月18日:人気YouTuber”Etika”の死について

 2019年6月26日に、大手動画投稿サイト”Youtube”の著名な配信者(以下「Youtuber」と言います。)であるEtikaが亡くなったと報道がありました。Etikaは、19日の夜時点での動画投稿を最後に行方をくらませており、ニューヨーク市警の捜索もむなしく、24日にニューヨークのサウス・ストリート・シーポートで遺体となって発見された、とのことです。

 Etikaは、主に新商品やサービスを紹介する動画を配信する動画で有名であり、特に、任天堂関連の動画に関するオーバーリアクションで人気を博していました。彼が日本で有名になった直接のきっかけは、大乱闘スマッシュブラザーズfor Wii Uの、ミュウツー参戦時のリアクション投稿だと思われます。それ以降、彼はその特徴的な髪型から、日本では「ガイル君」の愛称で親しまれていました。

 Etika死去のニュースは、日本でも話題となりましたが、彼の死の原因は、精神疾患に端を発した自殺であると言われています。事実、彼の精神状態の不安定さは、近年複数の方面から指摘されていました。2019年4月には、自殺を示唆する内容のつぶやきをtwitter上に連続で投稿しており、特に、銃を構えた画像を投稿したことによって騒ぎとなり、通報を受けて駆け付けた警察に身柄を拘束される事態にまで至りました。Etikaは、この時の様子をInstagramにて生配信しており、現在でもYoutubeで、その時の配信動画を確認することができます。

 と、ここまでの内容は、このブログに限らず、Yahooニュース等のポータルサイトを介して、誰もが入手可能な情報のはずです。ここからは、Etikaを含めたYoutuberが、どれくらいぎりぎりの精神状態の中で動画を投稿し続け、話題を提供し続けようとしているのか、つまり「SNSとメンタルヘルス」という観点から話をしてみたいと思います。

 Etikaは死の間際に、”I’m sorry”というタイトルの短い動画を投稿しており、その中で、自分が追いつめられ、後戻りできない状況にあるということを告白しています。特に考えさせられるのが、動画の中盤で、「自分の死が、SNSの今後の未来に繋がれば良い」と述べている箇所です。これは、動画に限らず、何かしらの形でインターネット上にコンテンツを提供することを生きがいとしている全ての人々にとって、極めて重い教訓になり得るのではないかと思います。

 Etikaが自殺に踏み切る前から、彼の精神状態について懸念する人間は、少なからず存在していました。Etikaが自殺する二か月前に、Youtuberの一人であるGoose Booseは、SNSと投稿者のメンタルヘルスの関係について言及しています。

 Goose Booseは、SNSで、特にYoutubeで一度成功を収めると、「その瞬間から他人の口と目と耳とが24時間、365日」その配信者を取り囲み、やがて配信者を押し潰すに至る、と話しています。その象徴的な例として、Goose Booseは、Etikaの行動を挙げており、「Etikaの精神は、Etikaに関心を持つ全ての人々によって、取り返しのつかないところまで追いやられてしまっているのではないか」と述べています。

 注目すべきは、Etikaの精神を蝕んでいる要因として、Goose Booseは、Etikaに否定的な人たちだけでなく、Etikaに肯定的な人たち、それどころか、Etikaを支持するファンをも取り上げているというところにあります。Etikaが取る全ての行動が、それが仮に助けを求めようとする精神的な悲鳴であったとしても、Etikaのファンたちは「悪ふざけ」としてそれらを受け止め、その深刻さを理解しようとはしないためです。

 この意見は、「SNSが精神を蝕む」ということについて、核心的なところを明らかにしていると思います。SNSにコンテンツを投稿する全ての投稿者がそうであるように、Etikaも初めは、モニターの向こう側から肯定的な意見、好意的な意見が寄せられることを期待して配信を行っていたことでしょう。

 しかし、人気が出るにつれ――それに伴い、過剰なまでの注目が集まるにつれ――、Etikaは自らの精神をすり減らしていきます。そして、どのように助けを求めればよいのか分からない状態で、Etikaは精神的に錯乱した状態を配信するようになります。そのようなコンテンツは、「いつものEtikaがやっている、いつものオーバーな芸風である」という外観を呈しているため、誰もがそれを「悪ふざけ」と考え、ともすればEtikaが無意識のうちに発信していた「一人にしてほしい」という言外のメッセージ(?)を聞き逃して(!)いたことに繋がるのです。

 インターネット上にコンテンツを投稿することは、広い海の真ん中で、小さな舟を出し、釣り糸を海面に垂らすような行為に似ていると私は思います。漁師が釣り糸を垂らすのは、(当たり前ですが)魚が引っかかってくれることを望むからです。それも、ただ釣り糸を垂らしただけではダメで、漁師は舟の位置を変えてみたり、釣り針に餌を付けてみたり(逆に外してみたり)して、魚が引っかかるのを待ちます。何十年も待てる人もいれば、一瞬でめげてしまう人もいますし、多くの餌でわずかしか魚を釣ることのできない人もいれば、ほんの少しの餌で多くの魚を釣ることのできる人もいます。

 しかし、忘れてはならないことがあります。それは、海面下に渦巻く魚の性質を、漁師は決して知ることができないということ。また、自らが足場としているのは、しっかりとした地面ではなく、頼りない小舟に過ぎないということです。釣り糸を引く魚の強さに、知らず知らずのうちに負けた漁師は、そのまま海中まで引きずり込まれ、水圧に負けてくびれ死んでしまう可能性もまた、往々にしてあるのです。

 上記のような状況に、本当にEtikaが置かれていたかどうかは、私には分かりません。Etikaの生を生きることは、Etika以外の人間には不可能だからです。また、未来において、Etikaと同じように人気を博したYoutuberが、Etikaと同様の運命を辿るかどうかも分かりません。Etikaが考えるであろうことを全て考え、感じるであろうことを全て感じ、知るであろうことを全て知り、知覚するであろうことを全て知覚するような人は、つまりEtikaと同じ時空に位置する、Etika本人の何者でもないからです。

 ただ、死の間際に、Etika自身が「自分の死が、SNSの今後の未来に繋がれば良い」と言っていたということは、自分と同じように破滅する危険性を、全ての配信者は潜在的に持っているのだということを、Etika自身もまた考えていたことを示唆するのではないでしょうか。今回のこの事件は、個人のSNSにおける付き合い方、インターネット上にコンテンツを投稿するという行為の重みについて、私たちに再確認を求める警鐘となるのではないでしょうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする