2019年08月13日:ゲーム内「身体」について、または『Undertale』の「不気味さ」に関する考察(再掲)

 さて、「身体」に対して私たち主体が上記のような態度を有しているとき、身体の延長として機能するゲーム内世界のアバターは、「ゲームで遊ぶ」という私たちの行為に、何をもたらすことになるでしょうか。まず明らかなことは、プレイヤー及びアバターは、「身体」の概念を足場として、一致していなければならない、ということです。「ゲーム内世界においてプレイヤーが行いたいこと」を、アバターは「プレイヤーの身体の延長」として、いわばプレイヤーの代替として行います。そして、アバターが「身体」として機能するとき、それは意識的な経験に先立つ知覚的な経験をゲーム内世界において担保することとなるため、ゲーム内世界へとプレイヤーが入り込んでいくための敷居を大きく下げることになります。また、プレイヤーは、身体の延長としてのアバターをゲーム内世界で自由に操作することを通じ、プレイヤー自身のアバターに対する自己同一性をさらに高めていくことになります(オープンワールドのゲームがもてはやされるようになった背景にも、この「プレイヤーの行いたいと考えていること」と「アバターがゲーム内世界でできること」が限りなく一致するところにあります)。

 さて、ゲーム内で操作可能なアバター(プレイアブル・キャラクター)は、プレイヤーの身体の延長としての役割を担っており、ゲームのプレイヤーは当該アバターを窓口として、ゲーム内世界を先見的に知覚し、ゲーム内世界を実感あるものとしてプレイヤーに伝えていることを確認しました。また、これと併せて、かかる役割をアバターが担う以上、プレイヤーとアバターの自己同一性は限りなく一致することが望ましいということも確認しました。

 では、今度は、このようなゲーム内「身体」であるアバターの同一性が失われることとなった場合について考察してみましょう。サンプルとして挙げるゲームは、2015年にリリースされて以降、衝撃作として多くの人々を魅了しているロールプレイング・ゲーム(RPG)、『Undertale』です。

 ストーリーについて語ることは本稿の趣旨ではないため割愛いたしますが、このゲームは、プレイヤー(アバター)が選択するゲーム内での行動が、ゲームの結末に大きな影響を与えます。具体的には、ゲーム内に登場する敵キャラクターを全て倒した場合は、”Gルート(Gとは、genocideのイニシャル)”というルートにシナリオが遷移します。

 このシナリオ遷移の過程で興味深いことは、Gルートを進めていく中で、次第にアバターが、プレイヤーの意図しない行動を取るようになってくる点です。プレイヤーの意図とアバターの行動との間に乖離が生じた段階で、ゲーム内身体としてのアバターの役割は果たされないこととなるのですが、それでは、ゲーム内身体としてのアバターがゲーム内身体としての役割を果たさないことによって、どのような効果が生じるでしょうか。

 このことを検討するに当たって、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)が1919年に出した論考『不気味なもの』を紐解いてみましょう。フロイトとはご存じのとおり、西洋哲学がそれまで放置し続けてきた人間の「無意識」に焦点を当て、精神分析学を作り上げた哲学者の一人ですが、かれは『不気味なもの』の中で、ある現象を人が「不気味である」と感じるのは、いかなる理由によるものであるのかという点を考察しており、その考察に対する考察(!)としてジリボンは「枠の不在」を掲げています。「枠」とは、ものごとの理解を可能にするための考え方、スキームのことを指しており、ものごとを理解するための手掛かりが失われているとき、人は自分の置かれた状況を不気味に思うとのことです。

 さて、以上のことを踏まえると、ゲーム内身体としてのアバターが、プレイヤーの意図に反する行動を取ったときに、プレイヤーが心理的には不気味さを感じ取れるということが言えるのではないかと思います。そして、「不気味さを感じる」という事実そのものが、平時ではアバターとプレイヤーは完全に一致しているため、文字通り両者は一体のものとして、すなわちアバターは身体機能としての役割を果たしているということを、裏返して証明しているのではないでしょうか。

【参考文献】
S.フロイト(1919)「不気味なもの」及びジリボン(2008)「不気味な笑い」、いずれも『笑い/不気味なもの』(2016、原 章二訳)所収

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