2019年08月13日:ゲーム内「身体」について、または『Undertale』の「不気味さ」に関する考察(再掲)

 このことを紐解いていくために、現代思想の知見を借りることとしましょう。フランスの哲学者であるモーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)は、世界(客体)と私(主体)との関係を取り結ぶ存在としての「身体」を発見しました。私たちは、物心がついたときから、世界の内側で存在している「世界内存在」です。このことは自明である当時に、厄介な問題を私たちにもたらします。それは、私たちは世界内存在として、あまりにも密接に世界と関わってしまっているがゆえに、かえって「世界そのもの」に触れることができなくなっている、という問題です。というのも、私たちはいかに直接世界に触れようとしても、世界に触れるに当たっては、何かしらの先入見や、知らず知らずのうちに当然視している事柄を介し、世界を見てしまっているためです。

 メルロ=ポンティは、まず、それらの多重の意味の膜に覆われた世界に対して、現象学的還元を行うことを設定します(「現象学的還元」について詳細は省きますが、要するに、何かしらの先入見や、知らず知らずのうちに当然視している事柄を忌避すること、と考えてください)。

 さて、現象学的還元により、私たち主体の眼前には、「あるがままの世界」が開示されることとなります。このことは同時に、これまで私たちが当然視していた世界とは、すなわち「意味の膜に覆われた世界」であって、今までは、そうした膜が膜として機能を果たしており、私たちが世界を見るときに投げかけていた視線を、それらの膜が屈折させていた、ということも明らかになります。

 意味の膜が取り除かれた、「あるがままの世界」に触れる私たち主体は、このとき世界(客体)を「知覚的に」経験していることとなります。また、翻って、意味の膜に覆われた世界を私たちが経験することは、そもそも私たちが無意識のうちに世界を意味の総合として見なしていることからも分かるように、「意識的に」経験していることとなります。

 このように、世界の見方を意識的なものか、知覚的なものかに分別することにより、私たちは「主体(つまり、私たちのこと)」が世界に対して負う決定的な役割に気付くことができます。それは、「意識的に世界を経験する」ことが可能であるためには、「私たちが意識を持っている」という役割のことです。そして、「世界を意味の総合として見る」ことが可能であるためには、逆説的にではありますが、私たちは「意味を総合する能力」を当然に有していなければならないのです。

 私たち主体は、現象学的還元を通じて、意識的な経験から知覚的な経験へと移行します。したがって、「意味の総合と見なされている世界」も、「世界を『意味の総合』と見なす主体」もまた所与のものでありますが、現象学的還元が成立し、知覚的な経験が開示されるためには、これらの所与のものに先立って、私たち主体は世界を経験しなければならなくなります。そして、メルロ=ポンティは、そのような経験を担うに当たっての媒として、「身体」が存在する、と主張します。つまり私たちは、世界を意味の総体として見るに先立ち、原始的かつ根源的な経験としての世界を、身体を通じて経験しているということになるわけです。

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