2019年08月13日:ゲーム内「身体」について、または『Undertale』の「不気味さ」に関する考察(再掲)

 さて、「ゲームで遊ぶこと」がいかにして可能であるのかを問うとき、私たちは直ちに、ゲームで遊ぶに当たっては、ゲームと私たちとを接続する”媒(メディア)”が存在すること、そして、その媒は、ゲーム内でキャラクターとしての実体(以下「アバター」という)を持つこと、に気付くことができます。「ゲームで遊ぶに当たって、媒が要求される」というこの事実の重要性は、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。というのも、TVゲーム以外の形態のゲームにおいて、TVゲームで要求されるような媒は存在しないためです。例えば、チェスや将棋といったボードゲームの場合、ゲームで遊ぶ人(以下「プレイヤー」という。)は直接駒を動かして遊ぶため、媒は不必要な上、そもそも介在する余地がありません。

 さて、このような論じ方をすると、次のような反論を得ることになると考えられます。例えば、サッカーゲームや、卓球ゲームを考えたとき、サッカーの場合はサッカーボールが、卓球の場合は卓球のラケットとピンポン球とが、それぞれゲームに当たっての媒となるのではないか、という反論です。この反論は正鵠を射ています。正鵠を射ているどころか、この問題を吟味しない限り、私たちは「ゲームで遊ぶことはいかにして可能であるのか」という問いに答えを提示することはできません。

 注目したいのは、私たちが媒を利用してゲームに参加するとき、それらの媒は、はっきりと「身体」の代替物として利用されるというところです。つまり、ゲームに参加するに当たって、私たちは様々な媒を「身体」の延長として利用しているのです。

 さて、では、アバターをプレイヤーの身体の延長として見るとき、私たちは「身体」に対して、どのような態度を有しているでしょうか。重要なのは、アバターとプレイヤーとの同一視ですが、この同一視を可能とする足場は、どのようにして提供されるのでしょうか。

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