2020年03月21日:ネタバレとサスペンスについて(再掲)

 このエッセイは、2018年12月24日付けで、「小説家になろう」上の活動報告に掲載した記事と、同一の内容となっております(ただし、再掲に当たって、一部の体裁・字句については修正を施しています)。

 今回、古い記事を再掲するに至った背景としては、この記事が、2020年3月20日付けで完結した「100日後に死ぬワニ」の四コマ漫画を理解するに当たって、手掛かりとなる内容を有しているのではないかと思われたためです(「なぜ手掛かりになるのか」ということのはっきりとした理由……にはならないかもしれませんが、その補助線として、関連するツイートを以下に引用します)。

 また、「100日後に死ぬワニ」については、完結後間もなくマーケティングが行われるようになり、このことについても注目を集めています。これについては、別に投稿予定の記事で検討を行いますが、当該検討に先立つ形で、やはり本論も一定の有効性を持つのではないかと筆者は考えております。

2020年3月21日記す。


 「ネタバレ」をテーマにしたワークショップが、2018年11月23日に大妻女子大学で開催されたことが話題となっています。「ネタバレの美学」と銘打たれたこの公開ワークショップでは、まず哲学・美学を専門とする若手研究者から話題提供が行われ、その上で、ネタバレという非常に興味深い現象について、来場者を含むフロア全体で多面的に検討が行われた、とのことです。

 ワークショップにおける各研究者からの発表要旨は、発表者のひとりである森功次先生のウェブログに詳細が掲載されています。また、この公開ワークショップの参加者のひとりであるDain氏が「『ネタバレの美学』が最高に面白い」というタイトルでブログ記事を作成しているため、そちらも参考になります。

 ……と、ここまで書いた段階で白状するのも野暮な話ですが、この記事を書いている私は、当該ワークショップに参加したわけではありません。しかしながら、

  1. 森功次先生のウェブログでは「登壇者、コメンテーターともに哲学・美学系の研究者になってしまいましたが、ほんとうは文学研究者とか、観賞者研究とかやってる人とかにもコメントいただけるとありがたいなーと思ってます。あと作品の作り手、制作会社側の人とかにも、コメントや実践紹介などしていただけるととてもありがたいですね。『一言言いたい!』という方がおられましたら、ぜひご連絡ください。」とあるため、これにあやかって何か言いたいと考えていること(もっとも、ワークショップが終了した後に外野からあれこれ言われることは想定していなかったかもしれませんが)
  2. (1.に関連して)私がこれから言いたいと考えていることは、発表資料の中では、高田敦史先生と森先生とが、ハンドアウトの中で「サスペンスのパラドックス」のところでわずかに触れているのみに過ぎず、また、togetterのまとめでも特に検討された形跡がないことから、本稿がワークショップ内の議論について新しい価値を付け加えるものではないにせよ、やはり何か言えるのではないかと考えていること

 ……の2点から、ネタバレとサスペンスとの関係性について、考察してみたいと思います。

 まず確認しなければならないことは、高田先生と森先生とが、どのようなコンテクストの中でサスペンスについて言及をしたのか、という点です。これについては、両先生の発表資料を確認すれば明らかで、高田先生の場合は、「ネタバレが能動的鑑賞を妨害し得る」という仮設を検討するに当たり、ネタバレ行為はサスペンスの効果を有するものではあるが、能動的鑑賞を妨害するという路線を変更するものではない、という考察の中で言及されています(高田(2018)、p.11)。また、森先生の場合は、典型的な「ネタバレ接触」では、本来作品から得られるはずであったサスペンス効果が味わえなくなる、という観点から考察がなされています(森(2018)、p.3)。

 そもそもの問題として「ネタバレ」についての先行研究はどの分野でも行われていないことから、まずは議論を展開するための足場として「ネタバレ」の概念を限定する必要がありました。両先生がサスペンスについて言及したのもそのためであり、主題は飽くまで「ネタバレ」の検討であって、「ネタバレとサスペンスとの比較考察」ではないのですから、サスペンスに関する記述がほんのわずかであるのは当然のことです。まして、両先生とも哲学・美学が主たる専門ですから、「ネタバレ」の検討も哲学上ないしは美学上の文脈から行われることとなるため、サスペンスが極めて限定的に取り扱われることもまた、当然のことと言えるでしょう。

 しかしながら、創作の観点から考察するとき、サスペンスの観点は見過ごすことのできない重要な点を含んでいます。この点を明らかにするために、ヒッチコックの映画『めまい』を、「オリジナル/コピー」という二重性の観点から論じた原章二先生の論考「めまいの美学―ヒッチコックの二重性」を参考としてみましょう。ヒッチコックの『めまい』は、フランスの推理作家ボワローとナスルジャックによる小説『死者のなかから』を原作とした映画ですが、小説のプロットと映画のプロットでは、明確に異なる点がひとつ存在しています(ネタバレ注意!)。いずれの作品でも、主人公は序盤に喪ったヒロインと瓜ふたつの女性(以下「ヒロイン2」という。)に、物語の中盤で出会うこととなるのですが、後にヒロイン2とヒロインとが同一人物であるということが判明します。

 問題は、二人のヒロインが同一の人物であるという「ネタばらし」がどのタイミングで行われるのか、というところです。『死者のなかから』では、ネタばらしのタイミングは物語の最終盤になるのですが、『めまい』では、映画の鑑賞者にのみ分かる形で、物語の中盤で早くもそのことが明かされます。

 この変更について、当の『めまい』を監督したヒッチコックは、その理由を次のように説明しています。長い引用になりますが、サスペンスの性質を理解する上で重要な示唆を含んでいるため、そのまま引用します。

 この物語は二部構成になっている。ブロンドのマデリン(一人目のヒロインです。)が鐘楼の頂上から落ちて死ぬところまでが第一部、そして、主人公がマデリンに瓜ふたつのブルネットのジュディ(二人目のヒロインです。)に出会うところから第二部がはじまるわけだ。……小説の最後になって、読者は、主人公とともに、マデリンとジュディがじつは同じ一人の女であることを知らされる。幕切れの不意打ち(フィナーレサプライズ)になっているわけだ。

 映画では、ちょっと手を変えてみた。第二部の冒頭でジェームズ・スチュアート(主人公の「スコティ」を演じる俳優の名前です。)がブルネットのジュディに会ったときに、すぐもう、真実――つまりジュディはマデリンと瓜ふたつの別の女なのではなくて、マデリン自身にほかならぬこと――を観客にばらしてしまうことにした。ただし、観客にだけわかるようにして、主人公のジェームズ・スチュアートにはわからないようにした。

 わたしのまわりの者は、みな、この変更に大反対だった。女の正体がばれるのは絶対に映画のラストにすべきだというのだよ。わたしは母親の膝に抱かれて話を聞く小さな子供の身になって考えてみた。母親がちょっとでも話しやめると、子供はすぐ、「ねえ、ママ、それから、どうなったの?」とたずねて、話のつづきをねだるものだ。ボワローとナスルジャックの小説を読んだとき、わたしは、第二部にはもう何も起こらないような印象をうけた。主人公がブルネットの女に出会ったとたんに、もう、それからどうなるのか知りたいというたのしみが全然ないと思った。私の処方によれば、マデリンとジュディが同一人物だということをひそかに知らされた子供は、きっとこうたずねるだろう――「ジェームズ・スチュアートは何も知らないの? それから、どうなるの? そのことを知ったら、どうなるの?」

 上記の引用に引き続いて、原は論考の中で、サスペンスとサプライズとの差について、以下のように言及しています。

 サスペンスとは、まずなによりも、字義どおり宙吊りになること、言いかえれば、二つのものの間で身をひき裂かれることである。自らを分裂させ、二重性をひき受け、それに向かい合うことである。母親の膝に抱かれて「ジェームズ・スチュアートは何も知らないの? それから、どうなるの? そのことを知ったら、どうなるの?」と聞く子供は、安全地帯に身を置いてスコティの話をただ絵空事として眺めて楽しんでいるわけではない。彼自身がスコティと母の膝との間で分裂し、二重化し、スコティに同情しつつ、母の膝に抱かれてスコティでないことに安心しつつ、苦しんでいるのである。それに対し……彼ら(ヒッチコックの変更に大反対だった人たち)が根本的に間違ったのは、ふたりの女の同一化を「知的なパズル・ゲーム」の完成、枠の中への嵌めこみととったためだ。

(原(2013)、p.188)

 ここまでの引用で特に重要なのは、いわゆる「ネタバレ」が発生するに当たり、当のネタバレが指示する要素としては、「サプライズ」と「サスペンス」の二つが存在している、ということになります。『死者のなかから』は、サプライズに基づいてプロットが構成されている一方、『めまい』ではサスペンスに基づいて映画が構成されているということは明らかでしょう。

 よって、一口に「ネタバレ」という場合であっても、厳密には「サプライズに関してのネタバレ」と「サスペンスに関してのネタバレ」の二つの場合があると考えられます。このうち、サプライズに関するネタバレが、作品に対する能動的干渉を妨害し、本来サプライズの効果が正常に機能していれば発揮されていたはずの効用を減衰させることになるのは、森先生と高田先生とが指摘するとおりです。

 では、サスペンスに関してのネタバレはどうでしょうか。先ほどの引用で示したとおり、そもそも「サスペンス」という概念自体に、「鑑賞者に対してのネタバレ行為」が含まれています。この考えに従うと、「サスペンスに関してのネタバレ」とは「鑑賞者に対してのネタバレ行為に関してのネタバレ」となり、結局のところは、鑑賞者に対して本来行われるはずだったネタバレ行為が、重複して行われているだけ、または単なる循環参照を行っているだけかのような外観を呈しています。

 しかし、話はそこで終わりません。というのも、「サスペンスとしてのネタバレ」と「サスペンスに関してのネタバレ」は、その行為者が異なるためです。先ほどの引用で明らかなとおり、「サスペンスとしてのネタバレ」は、作品を経由して鑑賞者に提供されます。一方、「サスペンスに関してのネタバレ」を鑑賞者に提供するのは、作品ではなくて、その作品を鑑賞した別の鑑賞者ということになります。つまり、「サスペンスとしてのネタバレ」が、作品-鑑賞者、という構造を取り、それがために当該ネタバレが作品内で完結する一方、「サスペンスに関してのネタバレ」が、作品-鑑賞者-既に作品を受容した他の鑑賞者、という三つのアクターによる構造を有しているところが、両者を根本的に隔てています。そして、ワークショップにおいて前提とされている「ネタバレ」も、やはりこの「サスペンスに関してのネタバレ」、言い換えれば、作品-鑑賞者-既に作品を受容した他の鑑賞者、という三つの構造を有しているコミュニケーション行為のことを、特に指している、と考えることができるのではないでしょうか。 以上、「サスペンス」及び「ネタバレ」という概念について、サスペンスの実体を検討するところから両者を比較してみました。結論としては、「サスペンス(サスペンスとしてのネタバレ)」とは“作品-鑑賞者”という構造を取る一方で、「ネタバレ(サスペンスに関してのネタバレ)」とは“作品-鑑賞者-既に作品を受容した他の鑑賞者”という構造を取る、という整理できるのではないかということが分かりました。このことは、追加で検討するべき新しい事項を含んでいます。それは「なぜ“作品-鑑賞者”の構造に“既に作品を受容した他の鑑賞者”が介在するだけで、『サスペンスとしてのネタバレ』は『サスペンスに関してのネタバレ』に転化してしまうのか」という問いです。この問いは、「サスペンス」が作品に関する情報であるという点から、「枠」の概念を用いて更に吟味ができるのではないかと考えられますが、本稿の当初の問いからあまりにも発展してしまうため、本稿では飽くまで紹介程度にとどめたいと思います。


【参考文献】

高田敦史(2018)「謎の現象学-ミステリの鑑賞経験からネタバレを考える」、公開ワークショップ「ネタバレの美学」のハンドアウト(https://t.co/coG9NfWCnV)より

森功次(2018)「観賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、そしてネタバレ許容派の欺瞞」、公開ワークショップ「ネタバレの美学」のハンドアウト(https://researchmap.jp/muj1jobrc-1833297/#_1833297)より

原章二(2013)「めまいの美学」、『人は草である』所収、彩流社

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コメント

  1. 囘囘青 より:

    平磊士さん

    コメントありがとうございます。
    特に準備をしていたわけではないのですが、懐の深い話題というものは、どのような分野からでも掘り下げることができるので、
    「100日後に死ぬワニ」は、コンテンツとしてとても刺激的でした。

  2. 平磊士 より:

    以前、「なろう」でも拝読させていただきましたが、私も「ワニ」の話を耳にした時、ヒッチコックの映画術のことを思い出しました。
    12月下旬と言う早い段階でワニについて言及されていた囘囘靑様には、ただ、ただ、感服するばかりです。