2020年12月07日:“未来を動かし続ける”Nike Japanの覚悟について(3/3)

2.「この動画が炎上していること」を、どのように評価するべきなのか

続き

 Nike Japanの動画が“炎上”してしまったことの原因について、前回までで振り返ってみました。古谷経衡氏の論考を手掛かりに、そのスポットが「在日コリアン」に向けられていることに注目して、我が国における韓国・朝鮮人に対する「人種差別」の延長線上に、今回の“炎上”を位置付けることができるのではないか――ということまでを、前回は確認しました。

 続いて、「Nike Japanの動画が“炎上”してしまったこと」について考えてみましょう。そもそも、これを“炎上”と評価してしまっても良いのでしょうか。

 上記に引用したtweetは、Nikeの広告が、「人種差別」に関する各人の立場について、リトマス試験紙のように機能してしまっているという点を踏まえています。しかしながら、このような言明は何も生み出さないどころか、Nikeが提起した「人種差別」という問題に関し、むしろ悪影響でさえあります。「人種差別」は当然になくなるべきですが、「人種差別をする者」を断罪したところで、分断が加速するだけだからです。

 Nike Japanの動画が反響を呼んだのは、その内容が、個々人の抱く「ナショナリズム」を大なり小なり刺激したためではないか、と考えられます。1789年の「フランス革命」を皮切りにして、世界は今日に至るまで、「国民国家」というフィクションの下で機能しています。「人種差別」の問題も、この「国民国家」概念の浸透によって生じた問題であると捉えることができるでしょう。「我が国/我が民族でない者」を排除するという姿勢は、前提としての「我が国」、前提としての「我が民族」というフィクションが成立していなければならないためです。

 では、「人種差別」の問題を解決するために、私たちは「国民国家」観を否定してしまえば良いのでしょうか。単純に考えれば、その通りでしょう。ただし、「単純に考えれば」という留保を付けたのは、今ある「国民国家」という概念をただ否定し去っただけでは、世界は良くても混乱か、さもなければ破滅するだけだからです。

 重要なのは、「国民国家」という考え方、「民族」という概念は、いずれもフィクション、つまりは便宜上のものに過ぎない――ということを、差別者/被差別者の区分によらず、この世界で生きる上での前提とすることです。その上で、「国民国家」の概念を乗り越えられるような新しい価値観を、未来のために生み出していくことが、今を生きる私たちに求められます。 このように考えてみれば、Nike Japanの動画は、「より良い世界を生み出していくために、『スポーツ』は(そして、Nikeは)何ができるのか」ということの問題提起である、ということができるでしょう。動画を緩衝し、その内容にナショナリズムの観点から反発する者が多いということは、むしろ我が国において「国民国家」観が強固に根付いているということの裏返しでもあります。このような状況が分かった上で、分断の溝を埋め、我が国における「人種差別」の問題と相対することが、これからの日本社会に求められることでしょう。

 さて、Nike Japanの動画が投稿されてから、およそ一週間後の2020年12月4日に、産経新聞から「ウイグル人強制労働防止法案に『反対』 ナイキなどロビー活動」という興味深い記事がリリースされました(https://www.sankei.com/world/news/201204/wor2012040013-n1.html、2020年12月6日閲覧)。

 記事によれば、米国の大手企業が、中国の新疆ウイグル自治区での強制労働を封じることを目的として米議会に提案され、審議中の法案について、反対するロビー活動を展開していることが報じられた、とのことです。

 もちろん、このニュースを引き合いに出して、ただちにNike Japanの広告を否定することはできません。産経の報道が事実であるとすれば、それはあってはならないことである一方で、Nike Japanが提起した「我が国に『人種差別』がある」という事実自体を否定することはできないためです。

 ここで重要なのは、Nike、又はNike Japanが「人種差別」の問題をどこまで真剣に考えていたのか、という点です。

 ケイン 樹里安氏が現代ビジネスにおいて掲載した論考「話題のナイキ広告で噴出…日本を覆う『否認するレイシズム』の正体」では、Nike Japanの広告が、「反レイシズムの主体としてのNike」を現前させただけでなく、「我が国におけるレイシズムへの抵抗の不在」をも現前させたということを評価しています。しかしその一方で、それが「ダイバーシティ・マネジメント」としての危険性をはらんでいることについても、併せて注意喚起を行っています(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/77893、2020年12月6日閲覧)。ここで言うところの「ダイバーシティ・マネジメント」とは、「利益を生み出す『飼い慣らせそうな多様性』ばかりを称揚すべき『多様性』として選別し、そこから利益を生み出す一方で、企業にとって利益の源泉として見出されないマイノリティの搾取・抑圧・排除を実行する際に、企業が自己保身をはかるために『選別されたマイノリティ』を『盾』にすること」を指しています。

 当該論考の中で、ケイン氏は、ほかにも1997年のスウェットショップ問題、日本の宮下公園で渋谷区と共に野宿者の強制退去にかかわったことなどを引き合いに出し、「NIKEの広告の「素晴らしさ」をもって、NIKEを全面的に肯定する姿勢は足元をすくわれる可能性をもつ」と指摘しています。

 このような状況を踏まえてみると、私たちは「人種差別」に対して投げかける視線の厳しさと同程度に、Nikeが企業活動を通じて果たしたいと考えている大義とは何か、言うなれば「未来を動かし続ける覚悟」がNikeにあるのかどうかを、厳しく問い続けなければならないのではないでしょうか。

以  上 

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