2024年02月12日:テレビドラマにおける“表現”の不可能性

2.「ある芸術」を「別の芸術」に翻訳すること

 小説や漫画を原作として、映画やドラマ、アニメが展開されるのは、近年では珍しい話でもありません。映画の黎明の時期には、舞台や演劇が題材とされることもしばしばありました。

 しかしながら、題材となる作品(原作)に直接依拠して、映画やドラマを作成することはできません。小説を原作とするケースを考えれば分かりやすいと思いますが、小説において表現される事柄は、登場人物が置かれている状況や事件の、ほんの一部を切り取ったものに過ぎません。ところが、小説を映像作品にするためには、登場人物の外見のディティールは必須ですし、登場人物が行動するための舞台についても、空白は許されません。小説において、【全ての状況を網羅的に説明し、描写する】ということは、不可能であるとともに不要ですが、映像においては空白が許されないために、【全ての状況を網羅的に説明し、描写する】ということは、可能であるどころの話ではなく、必須の話なのです。

 上記は【小説には不可能で、映像作品には可能なこと】の示唆ですが、当然に【映像作品には不可能で、小説には可能なこと】もあります。それは、登場人物の内面を描くことです。小説において、作者は登場人物に肉薄して、その感覚や情緒の機微、記憶などを直接表現することができますが、映像では、それらを直接表現することはできません。このため、小説において、登場人物が過去のトラウマに苦しんでいるのであれば、映像においては、例えば、【何かを目撃して張り詰めた表情をする】とか、【場面を切り替えてしまい、登場人物の過去の記憶を別の影像で示す】のような工夫をしなければならないでしょう。

 このように、小説と映像作品との対比を考えてみると、小説を映像へと単純に翻訳することは難しいのだろうということが分かると思います。それでは、映像を映像へと翻訳する場合、例えば、【演劇を映像化すること】や【漫画を映像化すること】についてはどうでしょうか。

 この点を考えるに当たっては、過去の記事において私が引用した、アンドレ・バザンの二つの論考が参考になります。長い引用ですが、この記事においても役立つと思われるので、そのまま引用します。

 「演劇と映画」という論考において、バザンは、ローゼンクランツが1934年に執筆した論考「映画と演劇」を引き合いに出して、映画と演劇との差異について考察しています。すなわち、映画の観客は、スクリーンに映し出される登場人物とは“同一化”の関係性を有する一方、演劇の観客は、舞台に立つ演者とは“対立”の関係性を有するのだ、と、バザンは指摘します。「『映画におけるエロティシズム』の余白に」という論考で、映画と演劇における観客との関係性の差異に関し、より端的な言及がありますので、それを引用します。

――映画では女性が裸であっても、相手役の俳優が身を寄せ、あからさまに彼女を求め、実際に愛撫することもありえる。なぜなら、劇場とは異なり――劇場とは、観客と対峙し、観客に意識されることによって成り立つ演技が展開される現実の場にほかならない――、映画は創造的な空間の中で展開し、観客の参加と同一化を促すからだ。女性を我が物とする俳優は、私の代わりに望みをかなえてくれるのだ。その俳優の魅力、美しさ、大胆さは、私の欲望と対立することはなく、むしろ欲望を実現してくれるのである(バザン 2015, p.69)。

 この引用よりも前の段落では、演劇、及びストリップショーが引き合いに出されているのですが、卑近な話として、ストリップショー(舞台で展開されるもの)とアダルトビデオ(映像として展開されるもの)とを交互に考えてみれば、より分かりやすいかもしれません。両者の違いは、ストリップショーでは男優は不在である一方、アダルトビデオでは男優がいるという点です。ストリップショーに関して、バザンは「ストリップショーでは女性が自ら脱ぐという点を重要な点として挙げてもいいだろう。相手役の男が脱がせるとしたら、観客席のすべての男たちの嫉妬を買うことになってしまう。実際、ストリップショーは観客の欲望を一極に集め、煽り高めることによって成り立っており、それぞれの観客は、身を委ねるふりをする踊り子を想像裡に手に入れるのである(バザン 2015, pp.68-9)」と述べています。

 すなわち、舞台上で展開されるエロティシズム(ストリップショー)において、【舞台上の演者】と【観客】は対立関係にあるため、ストリップショーに男優が登場してしまえば、その男優は観客の欲望と対立することになってしまう。他方、スクリーン上で展開されるエロティシズム(アダルトビデオ)において、【スクリーン上の登場人物】と【観客】は同一化の関係にあるため、たとえ男優が、女優とセックスの演技をしたとしても、それは観客の欲望の実現にほかならないのだ――と整理することができるのです。

 上記の論考を踏まえると、「映像作品」と「演劇」とでは、観客に対するアプローチの方法が、そもそも異なることになります。この点を考慮に入れることなく、演劇作品をそのまま映像作品に仕立ててしまえば、知らず知らずのうちに登場人物-観客の【対立関係】が【同一化の関係】に翻訳されてしまい、「原作ではそんなことなかったのに、この登場人物の行動に共感できない」といった状況が生み出されてしまうかもしれません。

 【漫画を映像化すること】に関してはどうでしょうか。これから語ることは筆者の私見になりますが、映像では時間が流れる一方、漫画ではそれがない、ということが、漫画を映像化するに当たってのネックになるだろう、と思います。四コマ漫画では上から下へ、それ以外の漫画では右から左へと、並んだコマを眺めて鑑賞するのが、一般的な漫画の読み方だと思います。その上で、鑑賞者たちは、コマ同士の前後関係から、時間の流れや、論理の流れを自分自身で補って読むことが必要になります。それらの流れは、大抵は作者が誘導してくれるものにはなりますが、【読者に対して想像の余地が大きく残されている】という点では、小説も漫画も類種の傾向を示していると考えられます。

 となると、映像に当たっては、本来読者が脳内で保管していたはずの時間の流れ/論理の流れを、何かしらの形で表現する必要性に迫られます。そうしなければ、その映像作品はせいぜい紙芝居か、ボラギノールのコマーシャルのようになってしまうでしょう。

諸要素のすばらしい統一、文学的イメージの正確さと独自性、登場人物を表現することばの信じがたいほどの深み、また、作者の驚くべき、またとない性格が、頁を通して、はっきりと現れているような、本の全体としての構成の魔術的な力やその大きな作用を作り出すすばらしい能力――こうしたものを、その作者に負っている作品がある。そうした傑作を映画化しようと思うのは、映画も散文も同じように軽蔑している人だけだ。

タルコフスキー(鴻 英良 訳。2022年)『映像のポエジア』、p.27

 レムからは、「あんたは馬鹿だ」と言われてしまったタルコフスキーですが、上記の引用は、ある芸術作品を他の芸術作品へと翻訳することは単純なことではないのだ、ということを示唆していると言えるでしょう。

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