2021年03月20日:『うっせぇわ』の流行、つまりは若者世代の行き詰まりについての考察(後半)

続き

2.「なほあまりある昔」、幽玄としての「社会」への憧れ

 作詞・作曲のsyudouが社会人経験がある一方において、歌い手であるAdoは、公開されている僅かな情報を基に類推する限りでも、社会人経験がないと考えることができるでしょう。

 それでは、社会人経験のないAdoが、社会人経験を基にしたsyudouの歌詞を歌うことについて、どのように考えれば良いでしょうか。――単なる矛盾・食い違いとして片付けてしまっても良いかもしれませんが、より思い切った解釈をここではしてみたいと思います。  いきなりで恐縮ですが、1000年ほど昔に遡りましょう。藤原定家が編纂した『小倉百人一首』の最後を飾る歌に、順徳院(順徳天皇)の以下の歌があります。

ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり(御所の古びた軒端のしのぶ草を見るにつけ、(朝廷の栄えた) 昔が懐かしく思われて、いくら偲んでも偲びきれないことだ。)

https://hyakunin.stardust31.com/76-100/100.html

 初歩的な古文法の知識ですが、助詞「けり」は【詠嘆】を表す助詞であるため、上記の和歌は順徳院の個人の感傷を述懐したものであると考えることができます。

 ところで、この歌が詠まれたとき、順徳院はまだ20歳でした。すなわち順徳院は、そもそも「偲ぶことができるほどの昔(朝廷が栄華を極めたころ)」のことを体感しているわけではないため、「自らが知り得ない時代を偲ぶ(知らないからこそ面白い、ワクワクする)」という虚構、すなわち幽玄の価値観が成立することとなります。

 このような順徳院の「時代」に対するアプローチ方法を、『うっせぇわ』に対して適用してみたとき、『うっせぇわ』は「遅れてやってきた中二病の歌」とは別の、新たな装いを鑑賞者に示します。それは、思わず「うっせぇわ」と言いたくなってしまうような今の大人たち(社会の象徴)に対する、まだ体験し得ないからこその憧れ、裏返ったノスタルジーの表れ、のことです。  Adoに社会人経験がないのはもちろんとして、syudouでさえも「20代後半」という設定が正しいのならば、社会人経験は10年程度と見ることができます。本邦において、社会人として生きる期間は相当に長いため、syudouの体験した社会も、その一部分に過ぎません。それが悪しき”制度”として若者世代にのしかかってくるのか、若者世代をマイノリティに追いやってしまっているのかについての論評は措くにしても、「うっせぇわ」と思わず反発したくなってしまうようなメンタリティとは別に、思春期の只中におり、間もなく社会へ飛び出そうとする若者世代が、不安と憧れとをないまぜにした感情の渦中にあるという様子を、この楽曲は描ききっている、と考えることができるでしょう。

3.若者世代が置かれた「難しい状況」

 しかしながら、社会に対する「反発」と「憧憬」という相反する感情が、若者世代ひとりびとりの内面を占めているというこの状況は、若者を立ちどころにして難しい立場へと追いやってしまうでしょう。

 ここで、1956年に、人類学者であるグレゴリー・ベイトソンが提唱した「ダブルバインド」理論を振り返ってみることには、大きな意味があります。ベイトソンは、その主著のひとつである『精神の生態学』において、「ダブルバインド」を「メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれること」として定義しています。『うっせぇわ』にダブルバインド理論を適用するとするならば、直接的に表現されている「社会への反発」がメッセージであり、歌詞の裏側に隠されているsyudouやAdoのバックグラウンド、すなわち「憧憬」がメタメッセージである、と読み解くことができます。

 ところで、このようなダブルバインドの状況に置かれたとき、当事者はその矛盾から逃れ難くなり、その帰結として、「コミュニケーションそのものからの逃避」というリアクションが発生します。『うっせぇわ』の歌詞を振り返ってみたとき、この指摘が孕む意味は大きいでしょう。歌詞の締めくくりにおける「アタシも大概だけど/どうだっていいぜ問題はナシ」というステートメントは、ダブルバインド的な境遇に置かれた若者世代の逃避行動と考えることができるためです。

 さて、では若者世代は、ちゃんとダブルバインド的な境遇から逃避できているのでしょうか。ここで同時代比較的に、”神聖かまってちゃん”の楽曲(及びそれに対するコメント)を検討してみましょう。ハフィントンポストの特集「表現のこれから」では、インターネット上の表現の在り方に関し、神聖かまってちゃんのインタビュー記事が掲載されています(「『インターネット、最近は好きだけど嫌い』。神聖かまってちゃんに聞いた、表現の自由。」、https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5de86aebe4b0913e6f8ad000、2021年3月14日閲覧)。

 この中で、神聖かまってちゃんの楽曲に対して、「死にたさが浄化された」、「生きるの頑張る」等のコメントが寄せられていることについて言及されています。ボーカルの「の子」氏は、このことについて「僕自身も、それで自分の居場所を作ってるから。自分に近い人がそう思ってくれているんじゃないでしょうかね。自分も10代の頃とか、先輩のミュージシャンの曲を聞いたことによって、吐き出せたものがあったから。別に救おうとしてやってるわけではないけど、救われたとかそういった感覚はわかりますね。」と付け加えています。

 このような傾向は、神聖かまってちゃんのYoutube上のコメント欄を眺めてみれば直ちに発見することができます。つまり、神聖かまってちゃんの動画の視聴者の多くは、「死に瀕している(物理的にではなく、心理的に追い詰められている)状態から逃れるための救いの光」として神聖かまってちゃんの楽曲を鑑賞している一方、『うっせぇわ』のコメント欄、『うっせぇわ』に対する批評を眺めてみても、そのようなものを積極的に確認することはできません。つまり、『うっせぇわ』において如実に、ともすればあからさまに語られている「社会への反発」は、逃避先を失った若者たちの最期の悲鳴、捉えることができるものでしょう。『うっせぇわ』は、楽曲に対して共感を覚える若者たちに対して、現状を肯定する力はあれど、救い出す力はないのです。  ダブルバインド的な傾向が継続すると、その傾向にさらされた者たちは、統合失調症に似た症状を呈するようになる、とのことです。『うっせぇわ』の流行が、もし若者の行き詰まりを、逃げ場のなさを示す楽曲であるとするのならば、若者の流行の行き着く先がどこにあるのかを見守っていくことには、大きな意義があることでしょう。


以  上 

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