第3話_平成1X年09月05日の放課後

 譜面台の準備を後輩に任せ、私は視聴覚室まで向かった。

 二学期最初にして最後の文化祭広報委員会が、この放課後に始まろうとしていた。その日は金曜日で、来週の土日に文化祭だから、もうあと一週間しか準備期間はない。すでに各クラスとも総出でブースづくりにいそしんでおり、私は吹奏楽部の出し物とクラスの出し物と、そしてこの広報委員会の活動で少しずつ、しかし確実に首を絞められているところだった。

 廊下でモップ掛けをしている一年生をかわし、私は視聴覚室の扉を開ける。すでに満杯だろう――と思っていたが、そんなこともなかった。

「あれっ、メグミじゃん!」

「と、トモ子?」

 よく知る声に呼び止められ、私はそちらをふり向いた。並べられた長机の最前列にいる、髪の毛をお団子結びにした小柄な女の子が、ケータイを片手に握りしめたまま、もう片方の手をぶんぶん振っている。

 彼女は一組のコムロ・トモ子といって、私とは同じ吹奏楽部で、ホルンのパート長をしている子だった。

「ていうか、メグミって委員やってたっけ?」

「いや、違うんだけどさ、ちょっとワケありでね。ていうか、えっ、トモ子も委員なの?」

「それがさ、聞いてよ!」

 私の問いかけなんか無視して、トモ子はなおも喋りつづけようとする。なお

「それがさ、聞いてよ!」

 というトモ子のセリフは、 天空城 ラピュタ における「バルス」と同義である。あとはただ、トモ子が喋り疲れるか、奇跡が起きるのを待つしかない。

「ホントはさ、あたしだってこんなのやるつもりなかったんだよ? だって一学期なんてコンクール近かったしさ、それにあたしこういう地味な作業向いてない方じゃん? だから委員の話が出てた時もさ、じっと黙ってたわけ」

「じ、じっと黙る?」

 「じっと黙っているコムロ・トモ子」なんて、ほとんど空集合 にひとしい概念である。

「えっ、じっと黙る?」

「でもさ、これが意外と楽しかったんだよね。ほら、自分の作ったデザインとかが配られるとさ、『あぁ、あたし青春しちゃってるなァ』とか思っちゃったりするわけよ。彼氏いないんだけど! 今年のパンフ、あたしが作ったんだよ?」

「えっ、じっと黙る? えっ」

「ちょっとメグミ! あたしの話聞いて――」

 ちょうどそのとき、

「おい、コムロ、いつまで話してんだ? ほら、イイノが困ってるぞ」

 と、野太い声が壇上からしてきた。トモ子に 気圧 けお されてまるっきり忘れていたが、壇上のパイプ椅子には、ナガオカ先生が腰かけている。ナガオカ先生は世界史担当で、よく言えば「風格のある」、悪く言えば「脂ぎった」おっさんだった。これで昔は相当なイケメンであり、しかも奥さんは美人だというのだから、世の中なんてものは不公平にできていると思う。

 視界の端にちらちら映るもう一つの人影があったため、私はむっとしてそちらを見返した。するとチョークを持っていたイイノ君が、あわてて私から視線をそらし、黒板に書かれているゆがんだ枠線に、細く丁寧な字で「ムラカミ」と記入した。イイノ君は、私が一年生だったときのクラスメイトである。そして“君”づけして呼びたくなる程度に、卓球部のかれはあか抜けていなかったし、いろいろと残念な雰囲気が漂っていた。

「さぁ、ほら、イイノ。早く始めようぜ」

「あっ、はい」

 ナガオカ先生の掛け声を受け、イイノ君が裏返った声で返事をする。

「じゃあ、えっと、点呼をとりますんで、皆さん、席に座ってください」

 イイノ君の呼びかけにしたがって、委員はみな席に着いた。私はとりあえず、真ん中の列の真ん中の辺りに座った。トモ子も隣に来てくれるだろう――と思っていたのだが、それは私のうぬぼれだったらしい。トモ子は私なんかほったらかして、中央前列の右端に座り、同じ部活の後輩にちょっかいを出しはじめていた。

「えっと、すみません、クラスの代表者は呼ばれたら返事してください」

 散らばっている生徒たちにあくせくしながら、イイノ君がハンドタオルで額の汗をぬぐっている。はじめから席を指定すればいいのに、と私は思った(退屈そうに腕を組んでいるナガオカ先生も、きっとそう思っているに違いない)。

 それでも一応、三年生は窓際、二年生は真ん中、一年生は廊下側に座っている……ようだった。しかし、詳しいことは分からない。みんなてきとうなのだ。三年生はおとなしく点呼に従っているが、みな『DUO』や『ゴロゴ』を膝に忍ばせているため、その有様がばれないよう、後ろの方に座っていた。二年生はもう、好きな人同士で固まって、ばらばらだった。「中だるみの第二学年」のよい 標本 サンプル だった。一年生だけが、みな列を作って、きちんと座っていた。だから、

「年齢を重ねるごとに、人は成長していきます」

 とかいう格言は、和文英訳にしか出てこない嘘っぱちだと私は思う。

「じゃあ、二年生いきます。一組の人――」

「ハイ!」

 ほとんど立ち上がらんばかりの勢いで、トモ子がまっすぐに手を伸ばした。

 私は七組のため、呼ばれるには大分時間がかかる。二組、三組――、そこまでは順調だった。

「四組の人いますか?」

 チョークを握りしめたまま、イイノ君があたりを見回している。しかし、「ハイ」と答える人は現れず、手が挙がっている気配もなかった。

「二年四組の人!」

 イイノ君が声を張り上げるも、やはり返事はない。

(意地悪だなぁ)

 そ知らぬ顔をしているナガオカ先生を見て、私は目を細めた。何を隠そう、二年四組の担任はかれなのである。はにかんだ表情からして、ナガオカ先生が何かを知ってるのは明らかだった。にもかかわらず、あえて助け船を出していないのだ。

「先生、四組のウキタさんがいないんですけど、何か知りませんか?」

「あいつな、引っ越したんだよ」

「えっ?」

 待ってましたとばかりのナガオカ先生の言葉に、イイノ君の目が丸くなる。

「引っ越したんですか、ウキタさん?」

「そうだ。ブルキナファソにな」

「えっ?」

 いまの「えっ?」は、私の口から漏れた。

「ブルキナファソですか……?」

 イイノ君が神妙な表情で、ナガオカ先生に相槌をうった。

「そうだ。ほら、七組にホリカワってやつがいただろ? あいつも引っ越したんだけどな、実はホリカワが幼い時に生き別れた双子の妹の方が、ウキタだったらしいんだ。なんだかんだいろいろあって、ホリカワの父さんの仕事の都合で、いまは二人ともアフリカなんだな」

「そうなんですか? じゃあ四組の委員は……?」

 内心私は、「私のお父さんは私のおじいさん」式の――煎じ詰めて言えば昼ドラ風の――この話について、もっと詳しく知りたいと思ったのだが、イイノ君は点呼のことしか頭にないようだった。

「あぁ、四組の委員はだな……」

 ナガオカ先生が、どういうわけか立ち上がりかけた、その矢先のことだった。視聴覚室の扉が開け放たれ、男子生徒が一人、中に飛び込んできた。

 このとき、視聴覚室全体が異様な雰囲気に呑みこまれたのを、私ははっきりと感じた。それは窮地のただ中にさっそうと登場してきた主役を、観客が固唾を呑んで見守っているような、あの空気感に近かった。じじつ、黄色い悲鳴を押し殺した何人かの女子にとって、かれは主役として申し分なかったかもしれない。――やってきた生徒は、全員の目が釘付けになってしまうくらいの美男子だったからだ。

 居並ぶほかの生徒たちをひととおり見わたしてから、男子生徒は頭を掻いた。トモ子を含め、女子の何人かは、わざとらしくうつむいていた。 仮令 たとい ぐうぜんであったにしても、かれと目を合わせるのが恥ずかしいからだろう。

「遅刻だぞ、ナヨロ」

 パイプ椅子に座りなおしたナガオカ先生が、男子生徒に声を掛けた。そして「ナヨロ」というワードは、この視聴覚室にいる全員の耳に、ほとんど魔法のように響いた。

(あれがナヨロか)

 私はテーブルに肘をついて、かれをまじまじと見た。

 ナヨロ・マモル――、この高校で、かれの名前を知らない人などいないだろう。入学当初から美男子として有名であり、かれを見るためだけに、わざわざ休み時間に一年八組に押し掛けた女子がいるとか、当時三年生だった部活の先輩の告白をすげなく振ったせいで、かれは弓道部に居づらくなって辞めたとか、二年生となった今では、もうすでに一年生の女子の間でかれのファンクラブができているとか、とにかくたくさんの噂が流れているのは、私も耳にしていた。

 私がナヨロ・マモルを見たのは、このときが初めてだった。ナヨロ・マモルがいた一年八組は一階で、私のいた一年一組は二階にあったため、偶然にも出会う機会はなかったし、二年生になった今でも、ナヨロ・マモルのいる四組は三階にあり、私のいる七組は二階にあったため、やはり出会う機会はなかった。

 だから、こうしてナヨロ・マモルに出くわしたとき、私は背中のかゆいところに、やっと手が届いたような感覚を味わっていた。一度「ナヨロ・マモル」と言われてしまえば、なるほどかれは「ナヨロ・マモル」以外の何者でもないだろう。――自分でもよく分からないけれど、とにかくそういうことなのだ。

 しかしこのとき、私は名状しがたい違和感も同時に味わっていた。ナヨロ・マモルが美男子であることは、私も否定しない。では「かれに見つめられたらときめくのか?」と言われれば、そんなことはない、と思った。早い話、私はナヨロ・マモルに、どういうわけか首がすわっていないような印象を受けたのだ。

「すみません」

 にやついているナガオカ先生に向かって、ナヨロ・マモルが言った。

「席ってどうなっていますか?」

「適当なんじゃない? 二年生は真ん中らしいけれど?」

 そうですか――という、炭酸の抜けたサイダーみたいな返事ののち、ナヨロ・マモルは何の予備動作もなくこちらをふり向いた。

 そしてばっちり、私と目が合ってしまう。

(まずい)

 そう思ったのにもかかわらず、私はすぐに目を離すことができなかった。いま考えれば自分でもしゃくにさわるくらい自意識過剰だが、このときの私は、すぐに視線をそらすことによって、ナヨロ・マモルにときめいているかのように誰か(?)に思われる(!)のが嫌だったのだ。

 それでも決心して目を離そうとした段階になって、とうとう事件が起きてしまった。――私を見て、ナヨロ・マモルがニコリと笑ったのである。どうしてかれは笑ったのだろうか? 三年近く経った今でさえ、私はナヨロ・マモルの真意が分からない。

 ほとんどうなだれるようにして、私はナヨロ・マモルから視線を外した。前列から、女子たちのくぐもった「黄色い声」が聞こえた。ナヨロ・マモルの微笑みが、自分たちに向けられたと勘違いしてのことだろう。

 もし事実がそうだったなら、彼女たちにとって(そして、私にとっても)どれだけ良かったことだろう。しかし現実は残酷だった。できるだけ瞳の焦点を合わせないようにしている私の努力もむなしく、ナヨロ・マモルは私がいる長テーブルのところまでやってきた。

 そしてあろうことか、かれは私の真隣に座ったのである。

 このとき私は

(あぁ、死にたいなァ)

 と思った。とっさに逃げ出したくなるのをこらえ、額から噴きだしてきた汗をぬぐうのもガマンした。前列にいた女子が、一瞬だけ私の方を見て、すぐに視線を戻した。三年生の視線が私の背中に注がれ、ほとんど痛いくらいだった。

 ところで、もし私がここで、恥も外聞もなく逃げ出して席を移ったのだとしたら、はたしてそれは正解だったのだろうか? ――それはあり得ない、と今の私ならば答える。今だから言えることだけれど、もし私が席を移ったとしたら、ナヨロ・マモルも待ってましたと言わんばかりに、きっと私のとなりに移動してきたと思う。もっとも、ナヨロ・マモルの動機なんてものは、私には分かりっこない。「ナヨロ・マモルがいかに分からないか」を分かってもらうために、私はこんな文章を書いているのだから。

 しかし、このときの私は、ナヨロ・マモルがどうしてこんなことをしてくるのか分からず、ひたすら困惑しきっていた。そして、

「死にたいなァ」

 という自罰的な思考は、だんだんと

「許さん。くたばれ」

 という怒りへと変わってきた。

 とはいえ、ひとりでうろたえているのもおかしな話だから、私は石のようにぴたりと動かないまま、イイノ君の切羽詰まったような話だけに耳を傾けていた。

「えっとですね、印刷所にお願いしていたビラの第三弾がですね、夏休み中に出来上がったので、皆さんに配ってほしいと思います」

 点呼を取り終えたイイノ君が、手元のメモを確認しつつ、黒板にものすごい勢いで駅名を書きなぐっていく。

「去年の分の引継ぎ書を参考にしてですね、だいたい二人のペアになって、市内の駅前で配ってほしいことになってます。一学年八クラスで、十二か所になります」

 十二か所の駅名が、黒板に右下がりのレイアウトで刻まれた。最寄駅のK駅を中心にして、K駅の周辺にある他の駅が、十一個ピックアップされた形だ。

「じゃ、えっと、この駅でビラ配りしたい人いますか?」

 白いチョークで、一番上の駅をイイノ君は指した。どうやらイイノ君は、いきなり全員に分担を割り振るつもりらしい。「同じ学年でそろわないと気まずくなる」とか「三年生は受験もあるから、学校の近くか、あるいは自分の家の近くの駅でやりたいだろう」とか、そういうことを考慮に入れられるだけの細やかさは、イイノ君には無いようだった。

 一年生は上級生に遠慮して手を上げないだろうし、三年生は自分にとって都合のいい、ラクそうな場所を選びたいだろう。変にこじれるのも嫌だから、ここはあまり人気のなさそうな、別路線にあるQ駅を選ぼう――と、私は考えた。

 イイノ君のチョークが、Q駅を指した。

「Q駅でビラ配りしたい人」

 無言のまま、私は手を上げた。

 私の視界の端で、何かがうごめく。

 それはナヨロ・マモルの腕だった。かれも挙手していた。

「おっ、何だ二人とも」

 凍り付いている私の耳に、ナガオカ先生の笑い声が響いてきた。

「仲良いんだなァ、付き合っちまえよ」

「じゃあ、えっと、ムラカミさんと、ナヨロさん、お願いします」

 Q駅の横に村上・名寄と記載すると、イイノ君は赤いチョークを持ち出して、その下に下線を引いた。

 腕を斬って捨てたい――私がそう考えていた矢先、

「ムラカミさん、」

 と、隣から声がした。

 ナヨロ・マモルだった。

「はい?」

「よろしく」

「あ……よろしくお願いします」

 なぜか敬語で、それも聞き取れない程度の早口で、私が言えたのはこれだけだった。

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