第2話_平成1X年09月03日の始業式

「――そんなわけでね、ムラカミさん、ムラカミさんにはぜひ、文化祭の広報委員になってほしいのよ」

 担任のマツモト先生からこんな話を受けたのは、二学期が始まってすぐのときだった。

 呼び出されたのは、職員室近くの廊下の曲がり角で、私以外に生徒の姿はなかった。このときの私は、防火扉に背をくっつけるようにして立っていた。寄りかかっていたわけではない。マツモト先生との距離がやけに近いせいで、私はそうするしかなかったのだ。

 いま思えば、私はマツモト先生に、物理的に追い詰められていたことになるのだろう(さすがは空手同好会の顧問をしているだけある)。マツモト先生は身長こそ私より低かったが、肩幅が広いせいで、圧迫感は最大だった。

「広報委員ですか?」

「ええ」

「あれですよね、駅前でビラを配ったり、各クラスから回収したポスターを、校内に貼り付けたりする――」

「そうよ。駅前でビラを配ったり、各クラスから回収したポスターを、校内に貼り付けたりするのよ」

 マツモト先生は、私の言葉をオウム返しにしてくる。口もとこそ微笑んでいたものの、目つきはヒキガエルを射すくめる鷹のようだった。

 そんなマツモト先生のまなざしを受け止めきれず、私は視線をそらす。廊下の窓に張り出しているひさし では、セミがクモの巣に引っかかっていた。もがいているセミめがけ、クモが少しずつにじり寄っている。

「どうしたの、ムラカミさん? そんな射すくめられたヒキガエルみたいな顔しちゃって」

「ええっとですね……」

 要するに、マツモト先生は私に、さっさと広報委員を押しつけてしまいたいのだ。切羽詰まっているマツモト先生の気持ちは、私にだってよく分かる。だって文化祭は、再来週の土日なのだから。いまから数えても十日しかない。

 ――数えてあと十日? それはおかしい。いやスケジュールがおかしいわけではない。広報委員はもう一学期の段階で決まっているはずなのだ。でも、誰だっただろう?

「広報委員ってたしか――」

「ホリカワ君がね、本当はやる予定だったのよ」

「ですよね?」

 私はくい気味にうなずいた。私は教室の一番奥の窓側に座っているのだが、そのちょうど対角線上、つまり黒板前の廊下側に座っているのが、ホリカワ君というやつである。いつも微笑んではいるものの、色白なうえに、妙に頬がこけているせいで、なぜか幸薄く見えてしまう男子……そんなホリカワ君が、広報委員だったはずなのに。

「いったいどうして――」

「それがね、ムラカミさん。ホリカワ君、引っ越しちゃったのよ」

「えっ」

 このマツモト先生は、さらりとすごいことを言う。

「えっ。引っ越したんですか、かれ? えっ」

「お父様のお仕事の都合でね、かれ、転校したのよ。ブルキナファソに」

「ぶ、ブルキナファソ?」

 名前だけは知っているアフリカの国・ブルキナファソ。私は目を閉じてブルキナファソをイメージした。一文字の漢字が脳内に浮かんでくる――“無”である。要するに私は、何のイメージもしぼり出せなかった。

「えっ、ブルキナファソ? えっ」

「すごいわよねぇ、ホリカワ君」

 汗だくになっている私なんか無視して、マツモト先生は天井を仰いだ。

「かれ、国際バカロレアを取得して、将来は パリ第一大学 ソルボンヌ で『ウラジーミル・ジャンケレヴィッチの美学観』を研究したいんですって」

 マツモト先生はすばらしい英語の先生だ。「バカロレア」や「ソルボンヌ」の発音が流暢なのは、マツモト先生がモントリオールからの帰国子女であり、英語とフランス語のトリリンガルだからである。

「こういうのって、『出藍のほまれ』って言うのかしら? ホント、すごいわよねぇ」

「そうですねぇ、あっはっはぁ!」

 悲しいことに、当時の私が言えたのは、この程度のことでしかなかった(そして三年近くたった今でも、この程度のことしか言えないと思う)。

 ただし、このときの「あっはっはぁ!」という笑い方には、個人的に意味があった。要するに、うまくこの場をやりおおせるだけの重要な手がかりを、私は確かにつかんだ、と思ったわけである。

 人は互いに必ず分かり合える――ということを、当時の私は無邪気に信じていた。

「でもですね、先生。だとしたら、なおさら私って適任じゃないと思うんですよ」

「あら、どうして?」

「だってですね、先生。ホリカワ君の後釜に座るっていうんなら、やっぱりそれだけ意識高い系……じゃなくて、意識高い人がやるべきだと思うんですよ」

「あら、ムラカミさんだって十分意識高いじゃない」

「えっ」

 マツモト先生は手を伸ばすと、私の手を掴んだ。

(あっ、投げ飛ばされるぞ)

 と私が思った矢先、マツモト先生は笑顔で

「だってムラカミさん、夏の補習授業、全部受けてくれたじゃない?」

 と、とどめの一撃をぶっこんできたのである。

 ここに来て、私もすべてを悟った。要するに

「ねぇ、ムラカミさん。ちょっと来てくれないかしら」

 とマツモト先生が私を呼んだ段階で、勝敗は決まっていたのである。

 一学期は吹奏楽のコンクールでてんやわんやであり、私はトロンボーンのパート副長として部活を優先していた。そんなわけで、とうぜん勉強なんかしなかったわけである。かくして期末考査におよび、衆人環視の下でおっぱいをさらけ出してしまったような悲惨な点数を叩きだした私に、“補習”という救いの手を差し伸べてくれたのが、このマツモト先生なのである。

「おっ――」

 すれ違った用務のおじさんが、窓に張り出したクモの巣に気づいたらしい。おじさんはモップの柄を使って、クモの巣をつつく。セミとクモは糸でもみくちゃになり、ぐるぐる巻きにされ、窓の下へと落ちていった。

 マツモト先生が、いっそう強く私の手を握ってきた。

「私の言うことを聞かないと、いまこの場であなたの手を握りつぶします」

 という強いメッセージが、私に伝わってきた。

「それじゃ、よろしくね、ムラカミさん」

「は、はい」

 かくして私は、急きょ文化祭の広報委員となったわけである。そして思えばこれが、私の人生が狂う第一歩だったのかもしれない。

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