第4話_平成1X年09月09日の昼休み

「――じゃ、今日はここまで」

 遠くから響いてくる(ような)チャイムの音と、古典のナガヌマ先生の合図を耳にして、私は目を覚ました。

 起立、気をつけ、礼――慌てて立ち上がった拍子に、私の机の引き出しから、クリアファイルが床にすべり落ちた。ファイルの中には、去年の広報委員からの引継ぎ書が入っている。もう何年にもわたって、引継ぎ書は使いまわされているのだろう。表紙は黄ばんでいたし、やたらと折り目がついていた。

 この引継書を基にして、私はこの昼休みに、ナヨロ・マモルと打合せをしなければならなかった。引継書自体には、大したことは書かれていない。「この時間帯がねらい目」とか、「周辺の高校にも配りましょう」とか、そういったことが書いてあるばかりだ。

 問題は、“どのように配るか”ということだった。もちろん私とナヨロ・マモルとで一緒に配れれば――嫌だけれど――それが一番である。しかし、私はビラ配りもそうだが、吹奏楽部員としての役目もあった。悪いことは重なるもので、吹奏楽部の顧問であるサエキ先生は産休のため不在であり、副顧問のイナバ先生は、なぜか青年海外協力隊でブルキナファソに行っており、長期休暇を取っていた。要するに、吹奏楽部として文化祭の催しものをしなくてはならないのに、頼りになるはずの顧問が誰もいないのだ。

 そんなわけで、私たち吹奏楽部の二年生は、体育館の準備とか、文化祭実行委員会の企画部とのスケジュール調整とか、巨大扇風機を借りるために業者にお願いするとかの仕事を、自分たちでやらなければならなくなっていた。これが地味にきつく、特にスケジュールが拘束されるのが痛かった。

 吹奏楽部としての準備がある。しかしビラも配らなくてはならない――となると、私とナヨロ・マモルとが一緒に配るのは無理だった。だから、ナヨロ・マモルにそのことを説明し、お互いに日取りを決めて、別々にビラ配りをしたい――というのが、私の思わくだった。

 かくして私は瞼をこすりながら、壁際に寄せられている段ボールの束をかいくぐって、廊下へと飛び出したわけである。

 階段を登ると、私は四組に入った。そして最初に目に飛び込んできたのが、コムロ・トモ子だった。

「トモ子?」

「あ、メグミ……?」

 何で一組のトモ子が四組にいるのかは分からなかったが、私にはそれ以上に、トモ子のよそよそしい雰囲気が気にかかった。いつも元気なトモ子のことだから、

「トモ子?」

 と私が呼びかけたら、

「おーっ、メグミじゃーん!」

 くらいのリアクションはしてくるわけである。それが今日は、やけにおとなしい。

「メグミ、どうかしたの?」

「いや、ほら、ナヨロを探しててさ」

「ナヨロ君……?」

 眉根を寄せたトモ子が、後ろの席にいる女子生徒を見やった。後ろの女子生徒はトモ子を見ながら、私にも聞こえる程度の声で、

「まだ講義室から帰ってないと思う。講義室K」

 と答えた。私の高校は理系が文系よりも多く、一組から三組までが文系で、五組から八組までが理系だった。そしてナヨロ・マモルの四組は文系と理系の混合クラスであり、理系のマモルは講義室に移動したまま、帰ってきていないようだった。

「あ、すいません、どうも」

 よく知らない女子生徒に会釈し、私が四組を抜け出し、マモルを探しに行こうとした矢先、

「ねぇ、メグミ、ちょっとこっち来て」

 と、トモ子が私を呼びつけ、廊下の端っこまで私を連れだした。

「何、トモ子?」

「あのさ……」

 周りに人がいないことを確認すると、トモ子は小声で

「メグミがさ、ナヨロ君とつき合ってるって、マジ?」

 とか訊いてきた。

 ナヨロ・マモルと私がつき合ってる?

 えっ?

「つき合ってる?」

 私の言葉に、トモ子は一回、しっかりとうなずいてみせた。

「えっ、その『つき合ってる』ってのは、『つき合ってる』っていう意味での、『つき合ってる』ってこと?」

「メグミ……何言ってるの……?」

 心配そうな顔でトモ子が訊いてきたが、正直私も動転していて、自分で何を言っているのか分からなかった。事実、私は心臓が飛び出しそうなくらい驚いていた。「私とナヨロ・マモルがつき合っている」なんて、「私が東大に合格する」のと同じくらいあり得ない。

「この前の委員会でさ、ほら、なんかメグミとナヨロ君、すごい仲良さそうだったじゃん? だからそうなんじゃないかな、って思ったんだけど」

「……いや、気のせいだって。気にしすぎじゃない?」

「でも、メグミ、ナヨロ君と隣同士だったじゃん」

「それは……」

 それは私のせいじゃない。むしろ、私だってナヨロ・マモルに訊きたいぐらいなのだ。どうして私の隣に、わざわざ狙い澄ましたように座ったのか、と。

 しかし、そんな疑問をトモ子にぶつけたところで、トモ子からまともな答えが返ってくるはずはない。だってトモ子は、私とナヨロ・マモルとがつき合っていると思い込んでいるからだ。

 そしてここまで考えた段階で、私は自分の対応がきわめてまずいことに気づいた。「それは……」と言ったのは、ただ話のつなぎでなんとなく口にしただけだ。しかしトモ子は、私が言いあぐねている、と考えてしまっていることだろう。

「いや、ほら、あれじゃん、トモ子」

 私の額からこぼれた汗が、上履きまで落ちていった。

「私がナヨロとつき合うなんてさ、ほら、私が東大に受かるのと同じくらいあり得ないじゃん。ね、そう思うでしょ? あっはっはぁ!」

 無理に笑顔を作ると、私はトモ子の目を見つめた。ぶちまけてしまった魚のエサを缶詰に戻しているような、みじめな気持だった。

 トモ子が返事をするまでに、何とも言えない間があった。私はもどかしくなったが、ほかにどうしようもなく、ただトモ子の返事を待つしかなかった。

「うーん、そっか……。そうかな……? そうかもね……?」

 トモ子はほほ笑んでいたが、目は笑っていなかった。

「そうだよね? メグミがつき合ってるのって、よく考えるとおかしいか。気にしすぎかな?」

「ちょ、ちょっと、トモ子……」

「引き留めてごめんね、じゃあね!」

 私はトモ子の制服を掴もうと手を伸ばしたが、トモ子はさっさと廊下の向こうへ去っていってしまった。

 トモ子ーっ! と、私は心の中で叫んだ。とは言うものの、私が高校二年生だった当時は、ツイッターもラインも、そもそもスマホさえまともに普及していなかったから、その点ではまだ無駄に拡散しなかった分マシだったかもしれない。

 とにかく、いつまでもトモ子に構っているわけにはいかなかった。講義室Kに行かなくてはならなかったし、残されている時間はあまりなかった。だってそうではないか? もしナヨロ・マモルが四組に戻ってきて、四組の生徒たちの見ている前で打合せなんてやろうものなら、どんな噂が立つか、分かったものじゃないからだ。

 できるかぎり平静を装うと、私は三階の渡り廊下から別棟へと急いだ。別棟には、物理や化学の実験室のほかに、選択科目を履修するための講義室がある。

 二階の講義室Kをめざし、私は階段を降りた。階段で私は、化学の資料集を抱えた数人の生徒とすれ違う。

 もしかしたら、ナヨロ・マモルと入れ違いになったかもしれない――私がそんな不安に駆られた矢先、開け放たれた講義室Kの扉から、ひとりの生徒の姿が見えた。ナヨロ・マモルである。ナヨロ・マモルはどういうわけか、黒板の前に立っていた。

 このときの私がどれだけホッとしたかは、わざわざ説明するまでもないだろう。だから特に身構えることもなく、私は室内の状況さえ確認しないまま、講義室K へと入りこんでしまったのである。

「あ、いたいた、ナヨロ――」

「――私とつき合ってください!」

 もし一歩先に地雷が埋まっているのだとしたら、私は喜んでそれを踏み抜いたことだろう。早く死にたくなったからだ。よりによって他人の告白の現場に、私は出くわしてしまったのである。逃げ出すわけにもいかず、スルーするわけにもいかず、まるで自分が告白されたかのような状態になって、私はただ立ちすくんでいるしかなかった。

 黒板の前にはナヨロ・マモルがいて、その反対側には女子生徒がいた。ナヨロ・マモルのことしか見ていなかった私は、彼女の存在に全く気づかなかったのだ。

 更に悲しいことに、私はその女子生徒のことをよく知っていた。彼女はカブラギさんといって、七組の学級委員長であり、おまけに吹奏楽部の部長であり、かつトロンボーンのパート長だった。

 役満である。

 カブラギさんの告白に、ナヨロはすぐに答えなかった。まぁすぐに答えないのは当然だろうが、完全に場違いな私にとっては、時間が止まってしまったかのように思えた。

 ナヨロ・マモルは頭を掻き、首をかしげると、

「ごめん、ムリ」

 と言った。

 たったそれだけ。

「こんにちは! わたし、人体模型のメグミ! 目玉はセルロイド、脳と心臓は合成樹脂!」

 と自分に言い聞かせていた私だったが、さすがに今のナヨロ・マモルの言葉には耳を疑った。「ごめん、ムリ」とは、いくら何でもあんまりである。カブラギさんがかわいそうだった。事実彼女は、小刻みに震えていた。

「ど、ど、どうしてですか……?」

 消え入りそうな声で、カブラギさんがナヨロに尋ねる。

「他に……他に好きな人がいるんですか……?」

「うーん……」

 ナヨロはそういって頭を掻くと、視線をそらした。もしこのとき、ナヨロ・マモルが窓側に視線をそらしていたのならば、話はややこしくならなかったかもしれない。しかし実際には廊下側を、それも私の方に視線をそらしたのである。

 私はカブラギさんを見た、カブラギさんもまた私の方を見た。

「う、っ……!」

 カブラギさんの瞳から、全てを察したかのように、一筋の涙がこぼれた。私の背中を、悪寒が駆けめぐる。これではまるで、私がナヨロ・マモルの彼女みたいになっているじゃないか。

 誰か助けてくれ――

「あ、ムラカミさん」

 まるで何事もなかったかのように、ナヨロ・マモルが私にほほ笑みかけてくる。

 ちがう、お前に助けてほしいんじゃないんだ――私がそう思った矢先、カブラギさんはわっと叫ぶと、右手に眼鏡を握りしめ、左腕で目元をぬぐいながら、講義室Kを走り去ってしまった。

「ムラカミさん、それってあれ、引継書?」

「いや、そうなんだけどさ、いまのさ」

 この間にも私は、必死になって考えていた。たとえ今教室に戻ったとしても、ロクなことにはならないだろう。とにかく引継ぎについて打ち合わせないことには、何も始まらない。

「まぁいいや、あのさ、ナヨロ、広報委員会の仕事のことなんだけどさ」

「うん?」

 私が適当な席に座ると、ナヨロ・マモルはその前の席に座って、私の方をふり向いた。

「私さ、 吹部 すいぶ の方で準備が忙しいからさ、Q駅でビラ配るの、手分けしたいんだよね?」

「うんうん」

「……そんでさ、ナヨロには、この日と……この日に、私はこの日と、その次の日に、ビラ配ろうと思ってるんだよね。それでいいかな?」

「うん。いいよ」

「そう、ありがとう」

「うん」

 話している間じゅう、私は焦っていた。ナヨロ・マモルがあまりにもすんなりとこちらの要望に応えてくれるのが、かえって不安だったのだ。もう少し時間がかかると見積もっていた打合わせは、ものの数十秒で終わってしまった。

「……何か質問ある?」

 間が持たない、と判断した私は、とっさにそう訊いた。

 これが間違いだった。

「あのさ、ムラカミさん」

「なに?」

「何かムラカミさんってさ、お母さんみたいなんだよね」

 自分の口から垂れたよだれが手に落ちたことで、私は我に返った。たぶんこれが、私が生まれて初めて体験した気絶だと思う。そのくらいナヨロ・マモルの言葉は、私にとって意味不明だった。いきなり何を言っているんだ? いったい、私はどうすればいいんだ?

 正直のところ、ナヨロ・マモルの言葉は気持ち悪かった。

「えっ」

「まぁいいや。それじゃ」

 そう言うと、ナヨロ・マモルは足早に教室を抜け、どこかへと去ってしまった。取り残された私は、ポケットからハンカチを取り出すと、ひたすら額の汗をぬぐった。

 この当時の私にとって、ナヨロ・マモルは不可解そのものだった。こんなに他人のことが分からないのは、私にとって初めてのことだった。ただ、少なくともナヨロ・マモルが「話し合えば分かる」というレベルの存在でないということだけは、私にもうすうすわかってきた。

 深呼吸をすると、私は講義室から出ようとする。と、そのときだった。

「ちょっと、メグミ!」

「えっ?」

 廊下の脇から、人影が飛び出してきた。コムロ・トモ子である。

「トモ子? えっ、ちょっと――」

「いいから!」

 トモ子が押しこくってきたために、私はまたしても講義室Kに逆戻りした。

「何、トモ子?」

「あのさ、メグミ」

 私の真正面に立つと、トモ子は大きく鼻から息を吸った。

「別にさ、隠すことないんじゃないかな?」

「か、隠す?」

「そうよ! ナヨロ君とメグミ、付き合ってるんでしょ?!」

 吹きだしてきた額の汗を、私はもう一度拭った。

「いや、誤解だってば」

「ウソよ! なんでそんなにウソつくのよ! カブラギさんがかわいそうだと思わないの?! 早退しちゃったよ、カブラギさん!」

 私がナヨロ・マモルと話していた間に、事態はとんでもない方向へと進んで行ってしまったらしい。きっとカブラギさんは教室へ戻って、周囲の目もはばからずに泣いていたのだろう。そしてなぜかトモ子がいて、根ほり葉ほりカブラギさんに訊いたのだろう。カブラギさんは

「ムラカミ・メグミはナヨロ・マモルとつき合っている」

 と思い込んでいる。トモ子もまた

「ムラカミ・メグミはナヨロ・マモルとつき合っている」

 と思い込んでいる。二人の思い込みは化学反応を起こし、トモ子は思い込みを確信だと勘違いしたまま、こうして講義室Kまでやってきたわけである。

「いや、カブラギさんはかわいそうだけどさ、でもそれ私が悪いっていうより、アイツがわるいわけでさ」

「ひどいよ、メグミ! 見損なった!」

 ――刑事ドラマで「旦那の浮気相手を奥さんがぶち殺す」みたいなシナリオを見るたびごとに、「どうして奥さんは旦那をぶち殺さないんだろう?」と、私はいつも疑問に思っていた。だけどたぶん、こういうことなのだろう。女性が許せないのは、女性なんだと思う。

「もうメグミとは来年まで口きかない!」

「えっ、口きかない? えっ」

 うろたえている私を尻目に、トモ子はさっさといなくなってしまった。そしてその次の年、私とナヨロ・マモルとの関係が事実無根と分かるまで、トモ子は本当に口をきいてくれなかったのである。

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