14.「要約の結果残るもの」と「要約されてしまうもの」との関係

 「テンプレ小説」に個性が無いわけではなく、「テンプレ小説」に根付いているはずの個性を認めたくない人々がいるだけだということが、前回までの考察で判明しました。

 そもそも、題材を拾ってくる時点で、既に創作者の創造性は発揮されています。ある作品を題材にしたとしても、展開をいいと思うか、セリフをいいと思うか、描写をいいと思うかで、すでに創作者は自分なりの個性を発揮しているわけです。

 選択もまた一つの個性ならば、選択した要素をどのように並べるのかもまた、一つの個性と言えるでしょう。このように考えてみれば、没個性的な創作などというものは、究極的には存在しないことになります。

 ここで私たちは再び、「なろうテンプレ」について暫定的な定義を与えた際の、あの考察に立ち戻ることになります。「なろうテンプレ」が一つの構造である以上、構造主義物語論と個性との関係について明らかにすることができれば、「『なろうテンプレ』における個性」の問題について、更に詳しく理解できるはずだからです。

 文学(あるいはもっと広範に「物語」)がいかなる構造を持つのかということについては、20世紀前半から学的対象として研究が進んでいます。繰り返しになりますが、ロシア・フォルマリストたちの研究成果とソシュールの構造主義言語学とが、ローマン・ヤコブソンを通じてレヴィ=ストロースに影響し、彼の構造主義がC・ブレモン、ロラン・バルトらに影響を与え、構造主義物語論が形成されているわけです。

 「構造」という概念と「個性」という概念とは、一見すると対極の関係にありそうです。構造が確固としたものだとするのならば、個性は一種の燐光のようにはかないものだという印象を与えるためです。

 しかし、「構造」に着目して物語を検討する際に、私たちはともすればある種の錯覚に陥ってしまいます。すなわち、構造こそが物語の全てであり、物語の個性は構造の派生物だとする、倒錯した主従関係です。実際は逆です。まず多種多様な物語が存在し、その本質めいた何かとして、あるいは帰納的に確認できるものとして「構造」が抽出されているわけです。

 この「構造を抽出する」という段階で、私たちは小説の「個性」をそぎ落としていきます。「なろうテンプレ」について言えば、まず多彩で個性的な「なろうテンプレ的に見える」小説が「小説家になろう」に投稿され、時間の経過に伴い、いつしか個性がそぎ落とされ、そのエッセンスだけが「なろうテンプレ」として抽出されるに至ったわけです。

 「なろうテンプレ」が批判されているときとは、とりもなおさずその「構造」が批判されているときです。「構造」とは「要約の結果残るもの」です。そこには枠が存在するだけで、中身はありません。肝心の中身にあたる「個性」は、「要約されてしまうもの」です。それを批判することはできません。個性は誰かに、あるいはどこかに縛られるものではないためです。

 以上のことから、私たちは次の結論を獲得するに至ったと言っていいでしょう。まず、「なろうテンプレ」とは「『異世界』、『チート』そして『ハーレム』といった要素を特徴として持つ『小説家になろう』独自の物語構造」という暫定的な定義ですが、これは確定的な定義として利用してしまっても問題ありません。この物語構造は、書き手と読み手との敷居を低くするために使われる、有益な枠であると言うことも分かりました。そしてこの枠に対する批判が的外れであり、「テンプレ小説」もまた十分に個性的であるということが確認できたわけです。

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