13.「テンプレ小説」の受容論

 いかに他者の作品から題材を取ろうとも、一度それを構成しようと試みれば、もうその時点で作者の創造性が発揮され、作品に個性が生まれるようになるわけです。

 したがって、「『テンプレ小説』には個性がない」という言説は誤りです。一口に「テンプレ小説」といっても、個々の作品を見れば驚くほど個性的です。『かぐや姫』と『桃太郎』とを同一視する人はいないでしょう。「『テンプレ小説』には個性がない」と言うのは、「『かぐや姫』も『桃太郎』も『昔々あるところに~』という文章から始まっているから同じだ」と言うのと同程度の論理的飛躍です。

 「テンプレ小説」における世界観の描写を批判し、「『中世西欧風の町並みとはどのようなものであるのか?』を表現するのが小説家の腕の見せ所なのだから、『中世西洋風の町並み』などという安易な表現は慎むべきだ」とする意見もあります(『なろう作家、読者の皆さま方へ』、http://ncode.syosetu.com/n2726bk/1/、2015年5月12日閲覧)。考えようにもよりますが、ある程度は留保の上で検討しなくてはなりません。注目したいのは、この「そっけない言い回し」ではなく、「そっけない言い回しであっても、書き手と読み手とがその世界観を共有できる」という事実です。

 例えば、「清王朝風の町並みが広がっている」と言い回しがあったとして、その言い回しからいったい何が理解できるというのでしょうか。この言い回しだけで、「ああ、この頃の中国は清朝・乾隆帝の時代で『乾隆の盛世』と呼ばれており、外国との交易を通じて中国国内に銀が流入してインフレが進み、非常に繁栄していた時代なんだよなァ」などと一発で把握できる人間など、おそらく「小説家になろう」内でも少数でしょう(いないかもしれません)。

 「清王朝風の町並みが広がっている」という言い回しだけでは、作者と読者はお互いに世界観を共有することができません。そこで作者は「この頃の中国は清朝・乾隆帝の時代で――」と説明を加えて、その世界観を細かく描写する必要性に迫られます。

 このように考えてみると、「中世西欧風の町並みが広がっている」という表現が、いかに絶大な威力を持っているかが分かると思います。「中世西欧風の町並みが広がっている」という表現がその役割を果すためには、「中世西欧風の世界」について、書き手と読み手との双方に共通した暗黙の了解が無くてはいけないからです。

 「『テンプレ小説』には個性がない」と、かくも悪し様にののしられている背景には、「『テンプレ小説』は低俗な小説だ」と見なす人々の心理が背景にあるものと考えられます。ちょうど「ライトノベルは低俗な小説だ」という意見が存在するように。

 「ライトノベルは低劣な小説だ」という意見は頻繁に見かけます。なるほど「“質の悪い”ライトノベル」ならば確かにあるかもしれません。しかしそれは、別にライトノベルに限った話ではありません。一般文芸だってそうです(例:某I文庫が出版している、古典的フランス文学の名著。この翻訳を担当したKという人物は、実はフランス語を用いずに、英語に翻訳された小説を重訳して翻訳したため、誤訳が非常に多い)し、学術書の中にもとんでもないものは混じっています(例:某T新書から出版されている、とある為政者についてのルポルタージュ。それをまとめたHという人物は、研究者の間での評判が芳しくない、など)(余談ですが、学術書に「○○氏監訳」と書いてあった場合、その○○氏はほぼ何もしていません)。

 筆者の周りでも「ライトノベルは低俗な小説だ」という意見を述べる人は見受けられます。そこまで言うのならば、その人はさぞかし「高尚な」小説を読んでいるのだろう――と確かめてみると、読んでいるのは宮部みゆきや東野圭吾のミステリーなどです。

 もちろん、宮部みゆきや東野圭吾の小説(及びその人格)を馬鹿にしているわけではありません。ただ、彼らがまだ駆け出しだった頃には、「こんな小説はミステリーじゃないよ」などと、本格ミステリー小説ファンの人たちは小馬鹿にした態度をとっていただろうと推測されます。しかし彼らが賞賛するエラリー・クイーンや江戸川乱歩の小説だって、「こんな馬鹿馬鹿しい小説、読むのは時間の無駄だ」などと、更に上の世代の文学ファンに言われていたかもしれません。彼らが賞賛する志賀直哉や太宰治の文学も、その系譜を辿れば二葉亭四迷ぐらいにまでは戻れるでしょう。そんな二葉亭四迷は「小説家になろう!」と口走った瞬間、親からぶん殴られて「くたばってしまえ!」と言われてしまっているわけです(二葉亭四迷というペンネームが、この「くたばってしまえ!」をもじったものであるという逸話は有名です)。

 要するに、「○○という小説のジャンルは××という小説のジャンルより低俗だ」という類いの言説は、形を変えて現代まで息づいているわけです。このとき問題になっているのは、小説の高級さ/低級さといった判断の不可能な問題ではありません。それは「○○などという低級な小説ではなくて、××という高級な小説を読んでいる自分はすばらしい」という、一種の自己陶酔的なイデオロギーなのです。

 誰がどんな小説を読むかは、その人の自由です。それは個人の趣味の問題であって、他人が口を差しはさむことは許されません。将棋を指すのが趣味の人と、スケートが趣味の人とがいたとして、将棋好きが「スケートは低劣で将棋は高尚だ」などと言っていたら、その人は愚か者以外の何者でもありません。趣味が違ったとしたら、せいぜい「私の関心事とあなたの関心事とは違うんだね」と言えるのが関の山です。

 ところが話題が小説のジャンルになると、なぜかこの言説が通用してしまいます。理屈・理論以前に「道徳に反しないかぎり、他人の趣味に口を出さない」ことは常識です。「ライトノベルは低俗な小説」かどうかは分かりませんが、そのような主張をしてしまう人間が何にもまして低俗な人間であることだけは確かでしょう。

 (余談ですが、日本は出版環境に恵まれています。「古今東西・世界各国の小説を母国語で読める」などということは、他の国では滅多にないことです。近年は、電子書籍がもてはやされていますが、そもそも海外で電子書籍が流行しているのは、外国の本の紙質が著しく悪いという、外国特有の事情があるためです。本を置くだけのスペースがあるのならば、できるかぎり紙の本を買うことをお勧めします)。

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