12.テンプレート小説における「個性」の問題について

 「なろうテンプレ」とは何か、そして「なろうテンプレ」を利用することに、いかなる利益があるのかについては、前回考察したとおりです。

 今回は「なろうテンプレ」に対してなされる「『テンプレ小説』には個性がない」という批判について考えてみましょう。

 以前にも指摘したとおり、「『テンプレ小説』には個性がない」という命題は、真偽を判断するのがきわめて難しい命題です。Yes/Noのどちらで答えるとしても、「『個性』とはそもそも何なのか」という定義から出発しないかぎり、十分な解答を得ることは難しいためです。

 【第一版】において、私はこの問題を「シグナリング・ゲーム」の概念を使って説明しました。書き手がテンプレート的な展開を提示する、読み手はそれに応じてブックマーク/評価を行なう、書き手はそれを受け、さらにテンプレート的な展開を提示する……という展開が、物語の完結まで繰り返されるところが、「テンプレ小説」の本質であると主張しました。そして、反応に従って行為が自動化されている以上、それは「小説を読む」ことにはならないのではないか、と結論づけました。

 ところがしばらく経ってから、私はこの説明方法では「テンプレ小説」を上手く説明できていないことに気づきました。というのも、上記のような「シグナリング・ゲーム」は、多かれ少なかれ全ての連載小説において展開されているためです。「テンプレ小説」だけを差別的に扱うことはもってのほかだと考えるようになったためです。

 この問題を考えるうちに、「『個性(創造性)』とはそもそも何なのか」という根源的な問いにたどり着きました。今だから白状してしまえば、これはどのようにでも答えられる問いであるために、【第一版】を書いている際には意図的に避けていました。

 しかし、曲がりなりにも創作を題材としてエッセイをものしている以上、いつかどこかの段階で、この問題に正面から向き合わざるを得ません。そして創作・創造性・個性をめぐる問題は、定量的理性が解き明かすべき問題ではなく、定性的悟性が解き明かすべき問題だと考えるに至りました。「創造性」の問題について深く切り込んでいるのは、芸術論です。そして芸術論の背後に、美学が控えています。その美学もまた、哲学の系譜に位置しています。したがって「創造性」について何かしらをはっきりさせるためには、哲学的な方法論を採用しなくてはなりません。

 話が抽象的になりすぎる前に、「芸術論はいったい、『個性』をどのようなものとして取り扱ってきたか」というところから出発してみましょう。このとき参考となるのが、1980年代からアートシーンで沸き起こったムーヴメントである、「シミュレーショニズム」のスタイルです。

 1980年代頃から、世界のアートシーンでは「シミュレーショニズム」という動向が出現しました。古今東西に存在する芸術を横断的に参照した上で、「これは」と思うものを抜き出し、集めた要素を自らの作品として再構成する、というのがその運動の醍醐味です。

 このような説明を加えると、さも高尚なことをやっているように思われるかもしれません。しかし有り体に言ってしまえば「パクろうぜ」という意味になります。

 徹底的に素材を収集サンプリングし、それを細かく解体カットアップし、それらを繋ぎ合わせ(リミックス)て自らの作品とすることにより、それまでに提起されなかった問題が提起できるのではないか――と、積極的にシミュレーショニズムを解釈すれば、そういうことになります。

 このような話を続けていると、「作品をパクることは世界的な運動なのだから、今更『テンプレ小説』の個性などは問題にならない」などという思慮の足りない結論に向かってしまう印象を与えるかもしれません。ですが、それは違います。私は「パクること」を肯定しているわけではありません。今からの話も、このシミュレーショニズムに対してなされた評価――「『シミュレーショニズム』は、芸術を制約から解放するものだ」という評価――に対して、大幅な留保をつけたい、という思わくから出発しています。

 直感的に考えてもらいたいのですが、シミュレーショニズムに「芸術を制約から解放する」ほどの力があるのならば、なぜこの二十一世紀という時代において「シミュレーショニズム」という言葉はそれほど普及していないのでしょうか。もっと幅を利かせていてもいいはずです。

 時間的・空間的制約がなくなったこの時代において、芸術のあり方が多様になったのは確かです。しかし、この問題はシミュレーショニズムとは別の問題として捉えるべき性質のものです。

 そもそも「シミュレーショニズム」という言い方そのものが、はなはだしい矛盾だと言わざるを得ません。普遍的な力をもって芸術に作用するはずの当のものが、「イズム(主義)」という語尾を伴って表現されているところに、そもそもの倒錯が見え隠れしています。

 このように考えると、実は「シミュレーショニズム」という運動は、「普遍性」の殻を被った個々の芸術家による運動なのではないか、あくまで属人的なものなのではないか、という予感が私たちの中に芽ばえてくるわけです。

 事実、シミュレーショニズムの鼻祖と考えられているマルセル・デュシャン(男子用小便器に『泉』というタイトルをつけて発表しようとした)やアンディ・ウォーホル(キャンベルのスープ缶を陳列して自らの作品とした)の行いは、なるほど行為のみに注目すれば、誰しもができるようなことをもったいぶって(あるいはまじめくさって?)「これは芸術だ」と言っているかのようなふでぶてしさがあります。

 しかし、「ではウォーホルやデュシャンの作品にオリジナリティが無いか」問われたら、それは違うという答えが返ってくるでしょう。ウォーホルは闇雲にキャンベルのスープ缶を陳列していたわけではありませんし、デュシャンは思いつきで男子用小便器を出品しようとしたわけではありません。アプローチの仕方こそ異なりますが、彼らはどちらも「芸術なんていうものは美学云々の問題ではなくて、芸術家個人の信用の問題なのだよ」と、近代芸術の虚構性を暗示しようと試みたわけです。

 つまり「シミュレーション」という方法を駆使しているからといって、芸術家そのものがテーマから解放されているわけではなく、ましてや芸術そのもののあり方が外へと開かれているわけでもありません。

「自分は芸術など信じない、パクってパクって、パクリまくってアートシーンの頂点に立ってやるぜ!」

 というスタンスで創作を進めていたにしても(これはジェフ・クーンズという人がすでにやっています)、「芸術の価値を信じない」、「パクリまくってやる」という意図が、既にその人の芸術に対する態度、つまりはその人固有のテーマとして存在しているわけです。創造とは、掻き集めた断片によって構成されるようなものではありません。創造の問題は、生の問題にもっとも近いためです。生は再構成されません。ただ見ることができるだけなのです。

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