1.1.「○○(国名)は魔法大国です」という記述の、設定上の危険性

 和製ファンタジー小説によく出る表現として、

「○○(国名)は魔法大国(魔術立国)です」

 というのが多いと思われます。書き手も無自覚に利用し、読み手もそれほど注意せずに見過ごしてしまう文章です。

 ですが、ここで用いられる「魔法」とは、どのような意味を持つのでしょう?

 「魔法」=「魔術の体系」という定義は序論で行いました。ではそのまま、この定義を「魔法大国」に当てはめてよいのでしょうか? ここに、一つの大きな問題があります。それは、「その『魔法大国』の中で、『魔力』を有しているのは『人間』なのか? それとも『媒介(呪文や魔法陣)』なのか?」という問題です。

 一見、問題にする必要があるのかどうかさえ不確かな問題ですが、こと「魔法大国」を作中に導入すると、この問題は見過ごせなくなります。

 まず魔力を有しているのは「人間」という状況を考えてみましょう。このとき、「魔法大国」という言葉は何を意味するでしょうか。

 一番妥当な答えは「魔力を持つ人間、つまり魔法使いの人口が多い」ということになるでしょう。

 ですが、「魔法使いが多い」ということがそのまま「魔法大国」に繋がるのでしょうか? 人口に比して一定数の魔力の持ち主がいると仮定するならば、単純な人口の多さがそのまま魔法「大国」であることの条件になってしまいます。それならばその国は、単なる「人口の多い国(つまり、多数の人口を養っていけるだけの資力に富んだ国)」であり、特別「魔法大国」としてあげつらう必要はなくなりそうです。

 となると、「魔法大国」は、「魔法使いの数」以外の条件で規定されそうです。

「人口が問題にならないのなら、魔法の技術が問題になるのではないか?」

 ある人はそう言うかもしれません。つまり序論で言及したような「魔術の体系」=「魔法」というシステムが高度に発達している国こそが「魔法大国」なのではないか、と。

 この切り口ならばうまくいきそうです。ですがここでもやはり、「人口」の問題が立ちはだかります。

 「魔法」というシステムが「魔法大国」としての価値を規定するならば、当然そのシステムを守ることが「魔法大国」にとっての課題となります。

 ところが、この「魔法」というシステムは維持・管理が大変です。単純に技術を記録として保存するだけでなく、それを実際に運用できる人間がある程度存在していなくてはならないからです。

 維持・管理のためには教育が必要です。教育のためには学校が必要です。学校には先生が必要です。――そして「生徒」も。生徒をどうするか考えてみましょう。

 仮に本国人でない人が「留学」という形式で「魔法」というシステムに参加するとしたらどうなるでしょう? この場合、核心となる「魔法」は国外へ流出します。するともはや「魔法大国」が「大国」であり続けることはほとんど不可能になります。

 では「魔法学校」に入れる人間を「魔法大国」の出身者にしたらどうなるでしょう? 一見全ての問題は解決しそうですが、仮に魔法使いの人口が大きく変動したら維持・管理に著しい損害が出ます。人間全員が「魔力」を有しているならば(これについては別の機会に考えます)問題はありませんが、多くの和製ファンタジーでは、全人口を「魔法使い」とする設定はありません。

 こうした問題をいちいちあげつらうとキリがありません。しかしとにかく、「魔力は人間に宿る」と考えてしまうと、「魔法大国」という観念が存在する余地は余りないようです。

 したがって「魔法大国」が存在する和製ファンタジーでは、なかば強制的に「媒介(呪文や魔法陣)」が「魔力」を有することになります。

 この考えに従えば、「魔法」は呪文や魔法陣を知っている人ならば誰にでも利用可能になります。ちょうど科学技術が、仕組みは分からずとも誰でも利用可能なのと同じです。

 単純に「魔法」と「科学技術」を入れ換えただけなので、見栄えはパッとしませんが、和製ファンタジーにおける「魔法大国」は、根底にこの設定がなければ存在しえません。

 ゆえに

「○○(国名)は魔法大国です」

 と書いてある和製ファンタジーにおいて、「魔法使い」は単ある技術者であり、「魔法使い」の力量に基づいた派手な展開は発生しえないのです。

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