6.「魔導」の教育性と立ちはだかる問題

 序論において、「魔術」、「魔法」そして「魔道」の三つの違いについて確認しました。

 これでこの問題は終わったと考えていましたが、後になって「では、“魔導”とは何なのか」ということをご指摘いただきました(ありがとうございます)。

 今回の補論では「魔導」について扱ってみたいと思います。

 序論で行ったプロセスに従い、ここでも「魔導」の”導”に注目します。

 「導」という文字から想像できるものは二種類あります。熟語に例えながら整理してみると、一つ目は「魔力を導くこと」、すなわち“導体”であり、もう一つは「魔法を教えること」、すなわち“指導”です。

 この二つの解釈のうち、どちらがよりふさわしいのか。私はここで、「魔導学校」という言葉をキーワードにして、「小説を読もう」内で検索をおこないました(2014年2月22日に実施)。

 その結果、該当する作品は八作品でした。すべての作品に目を通すことはできませんでしたが、あらすじから検討をつけるかぎり、「魔導」=「魔力を導くこと」として用いている作品が大半であるように思います。

 では、「魔導」=「魔力を導くこと」で良いのか? ――これまで、「魔術」、「魔法」そして「魔道」を定義した私の意見では、「魔導」はむしろ「魔法を指導すること」の意味として捉えたほうがよいのではないか、と考えます。

 これには、理由が二つあります。

 第一に、“導”という漢字の原義が “指導”であるため。“導体”もまた“案内する”という本来の意味が含まれていますが、こと“導師”などの漢字を見るにつけても、“導”=“指導”と考えた方がよいのではないでしょうか。

 第二に、「魔導」=「魔力を導くこと」とするならば、「魔力の保持者は結局誰なのか?」という、第一講で議論した問題を蒸し返してしまうことになるのです。第一講では、「魔法使いを活躍させるファンタジーを書きたいのならば、魔力は人間が持つべきだ」ということを述べました。また、仮に「魔力が媒体に宿っている」としてしまうと、和製ファンタジーで無自覚に利用している設定に不具合が生じることも示唆しました(「魔法学校」の存在意義、「魔法大国」の表記など)。したがって、「魔導」=「魔力を導くこと」という定義を採用すると、考えざるを得ない問題はあふれ出します。そうした問題をいちいちあげつらうことは本稿の趣旨に反しますが、いずれにしても、そうした問題のすべてが「魔導」=「魔法を指導すること」と設定すれば解決(もしくは省略)できる問題です。

 「魔導」=「魔法を指導すること」とした場合、「魔導学校」は「魔法学校」とは別の組織になります。「魔法学校」が「魔法を使えない生徒に、魔法使いが魔法を指導する場所」である一方、「魔導学校」は「ある程度の魔法が使える下級の魔法使いに、魔法の教授の仕方を教える場所」となるからです。

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