10.1.知覚問題①「発話」と「記述」との差異についての検討

 「第三講:呪文(文様)原論、および封印」における二つ目のセクションで、「3.1.2.認識の問題をどのようにして扱ってゆくべきか。『普遍魔術』と『専門魔術』」という題目を論じました。「魔法が効果を発揮するためには、その魔法が認知されなくてはならない」ということについて、その項では述べました。

 この第三講、およびその前の第二講を考えている際、「語る」という形態と「書く」という形態とについて、筆者はかなり楽観視していました。第二・第三講を読んでいただければ分かるとおり、「魔法の呪文を唱えたり、魔法陣を書いたりすれば、効果が発揮されるだろう」ということを前提にして話を進めていたわけです。

 しかし、この問題がそれほど簡単な問題ではないということに、筆者は後になって気づきました。“発話”という形態と、“記述”という形態との違いが、いかなる作用をもたらすのかについて、私たちはよく考えておかなくてはなりません。

 まずは“発話”について考えてみましょう。たとえば「あいうえお」と発話したとします。このこと自体には何の問題もありません。

 では次のような行為が可能か否か、考えてみてください;「あいうえお」と言いながら、同時に「私は『あいうえお』と言っている」と言うことができるのか。

 ――上記の行為は、おそらく不可能だと思います。この例からも明らかなとおり、任意のことがらについて語っているとき、私たちはその語りの内容について、メタ的に語ることが許されないのです。

 では、“記述”の場合はどうでしょうか。「あいうえお」と書いたあとで、「私は『あいうえお』と書いた」と書くことは可能です。つまり、“発話”という形態において出来なかったことが、“記述”という形態においては可能なのです。

 ですがこの帰結に対して、次のような反論が予想されます;“発話”の例示において設定した条件と、“記述”の例示において設定した条件が、微妙に食い違っているのではないか。もし、“発話”の例示において設定した条件を、厳密に“記述”の例示において適応するならば、「『あいうえお』と書きながら、同時に『私は「あいうえお」と書いている』と書かなくてはならない」はずである。そしてこのような行為は不可能であるから、結局このやり方では“発話”という形態と“記述”という形態を区別することはできない。

 上述の反論は真に迫っていますが、しかしある一つの条件を、暗黙の内に前提としてしまっているところに穴があります。それは “記述”と“記述する行為”との混同です。“記述する行為”に立場を移して考えれば、確かに上述の反論には意味があります。

 ですが、純粋な“記述”の概念の中には、“記述する行為”は含まれません。両者は限りなく似ていますが、本質的なところで隔たっています。その違いは、私たちが記述されたものを読むことを考える際に、いっそう明らかになります。“記述されたもの”は、これといった行為をなさずとも、それ自体が独立して存在するためです。もし“記述”という概念の中に“記述する行為”が含まれているのだとしたならば、私たちは白紙の新聞を手に取り、読みながらかつ(知らないはずのニュースを)記述して(知っているはずなのに)ニュースを知覚するという、不可解な行動を取らざるを得なくなります。

 話を元に戻しましょう。純粋な“記述”の概念の中には、“記述する行為”は含まれません。「行為が含まれない」というのは、「時間が介入してこない」ということと同義です。“記述”にあるのは「順序」であり、「時間」ではありません。文字列「あいうえお」を見る際、普通の読み方をしていれば、文字「お」よりも先に文字「あ」を知覚しているはずです。

 文字「あ」を見て「あ」を知覚し、文字「い」を見て「い」を知覚し……最後に文字「お」を見て「お」を知覚します。このとき、知覚された文字「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」は、いったん脳内に保留され、しかるべきときに総合された上で文字列「あいうえお」となって知覚されます。こうしたプロセス(普通は「読む」という言葉で表現されます)は、脳内で瞬間的に処理されますが、やはり必然的に時間が介在する「行為」です。

 ここまでを考えれば、改めて「発話」、「記述」における特殊な関係を確認することが可能になります。すなわち「記述」とは「行為」のない「発話」のことであり、「発話」とは「空間」のない「記述」のことなのです。そして「行為」する以上、「空間」上に位置を占めることはできず、「空間」上に位置を占める以上、「行為」することはできないのです。

 「ゼノンのパラドックス」が示唆しているのは、「行為(運動)」と「空間」はしばしば混同されうるという事実です。

 「ゼノンのパラドックス」といえば、有名なのは「アキレスと亀」ですが、ここではもう一つの例である「二分割のパラドックス」について紹介したいと思います。

 ゼノンは「線分ABにおいて、地点Aから地点Bまでは到達することができない」という、一回聞いただけでは寝言のような主張を展開します。

 ゼノンがそのように考えるのは、次のような理由のためです;地点Aに立っている射手が、地点Bまで矢を放ったとする。飛んでいる矢は、地点Bに向かっている際、とうぜん地点A‐Bの中間点である地点Cを通過するはずである。つまり、地点Cを通過しないかぎり、地点Aから放たれた矢は地点Bまで到達しないわけである。ところが、今度地点Cを通過した矢が地点Bに向かっている際、とうぜん地点C‐Bの中間点である地点Dを通過するはずである。つまり、地点Dを通過しないかぎり、地点Cを通過した矢は地点Bまで到達しないわけである。ところが……(略)――とまあ、そんなわけで、矢はいつまでも中間点を通過するだけであり、Bに至ることはないのである。

 地点A‐Bまでの距離を仮に1とします。AB=1のとき、Aから中間点Cまでの距離はAC=1/2となります。AC=1/2のとき、CBもとうぜん1/2ですから、CからCBの中間点Dまでの距離は1/4となります。

 中間点までの距離を、順番に足してゆきましょう(nは0を含まない自然数);

 1/2 + 1/4 + 1/8 + … + 1/ (2^n-1) + 1/ (2^n)

= (1-1/2) + (1/2 – 1/4) + (1/4 – 1/8) + … + {1/ (2^n-2) – 1/ (2^n-1)} + {1/ (2^n-1) – 1/ (2^n)}

 カッコを外せば余分な項が消えるため、

= 1 – 1/ (2^n)

もちろん、

1/ (2^n) → 0 (n → ∞)

ですので、

1 – 1/ (2^n) → 1 (n → ∞)

「やっぱり矢は届く!」

 と言えないこともなさそうですが、数式を見るかぎりだと、煙に巻かれたような気分になるものと思います。

 普通、飛ばせば矢は刺さります。ゼノンのパラドックスは、こうした日常的な直観に反しています。現実において、飛ばした矢が目的地に届かないことなどはありえない。ところが数式にしてみると、矢はいかにも中間点を通過し続けるのみで、目的地へと到達するようには見えない――このような矛盾パラドックスが生まれるのはなぜか。それは、数式の内部で処理されているものが「空間」であり、「運動(行為)」ではないところに理由があります。

 地点A‐Bまでの距離を仮に1としたとき、この数値1によって表現されているのは「空間」です。空間は1/2、1/4…と、いくらでも区切ることが可能ですが、運動においてそのような区切り方をすることに、究極的には意味がありません。なぜなら運動とは線形であり、位置に同定できるようなものではないためです。ゼノンのパラドックスがパラドックスとして機能している背景には、運動の問題を空間の問題へと転置しているという事情が存在するわけです。

 だらだらと議論を重ねてきましたが、本題に戻りましょう。「記述」とは「行為」のない「発話」のことであり、「発話」とは「空間」のない「記述」のことである、という結論を魔術の考え方に応用するとき、それまで同種のものとして見なされてきた呪文(発話)と文様(記述)とは著しく異なったものであるということがはっきりと分かるようになります。

 まずは呪文について。上述の定義に従えば、呪文を唱えることは行為の領域に属します。行為に属する問題である以上、呪文は一度唱えるごとに、一回かぎりの効力を発揮することになります。

 次に文様について。上述の定義に従うと、文様を描くことは記述の領域に属します。そうである以上、文様は一度描かれてしまえば、半永久的に魔術の効力を発揮することができます。

 このように検討してみると、いかにも文様の方が呪文よりも使い勝手が良いように思われます。このことがどのような意義と限界とをはらむのかについてはいくらでも議論できますが、このエッセイの目的は、あくまで書き手の設定作りに貢献することなので、あえて言及しません。

 少なくとも、以上に検討した内容から、次のような設定を作ることができます。

①よい点:

 文様(魔法陣)を記述することにのみ魔力が消費されるため、魔法陣の発動そのものによって魔力が消費されることはない。したがって、昔描いた魔法陣が消えないまま勝手に発動し続けるために、魔法使いがいたずらに魔力を消費し、衰弱するといったような設定からは解放される。

②悪い点:

 文様の方が呪文より使い勝手の良いこと。改善の方法としては、(1)魔法陣の作成には、呪文とは比べ物にならないほどの莫大な魔力が必要となること、(2)魔法陣は、あくまで呪文に対しては補助的(魔法陣で呪文の効力がアップ、など)な役割しか果たさない、等の設定を織り込んでおく必要がある。

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