10.2.知覚問題②魔術仕掛けの神

 口述による呪文と記述による呪文は、その性質が著しく異なるということを前回は確認しました。

 口述による呪文は一種の運動であるため、一度発動したら効果は永続しません。一方記述による呪文は運動ではないため、一度記述したら、魔法陣が消滅しない限りにおいて効果は永続します。

 ここで私たちは、言語をめぐる数々の難問の前に正面から立ち向かわなくてはなりません。

 第一の問題は、「言葉以外の行動様式も、言語として機能しうる」という問題です。

 抽象的な説明だと分かりづらいので、一つの例を皆さんにも考えてもらいたいと思います:今、ある居酒屋に常連客が入ってきました。任意の席についた彼は、おしぼりを持ってきてくれた従業員に対して、

「いつもの」

 と声をかけます。それを聞いた従業員は、なんのためらいもなくビールの中ジョッキとお通しを持ってくる――。

 今も日本にあるどこかしらの居酒屋で、きっと目にすることができるであろう一つのサンプルですが、上記のやり取りは、言語の問題を考える上で特に注意しなくてはなりません。

 客は「いつもの」と言っただけです。決して「中ジョッキとお通しを注文します」と言ったわけではありません。それでも従業員が「いつもの」というメッセージの意味を理解し、客の意とするものを忠実に履行し得たのは、それまでにも常連客は度々店を訪れ、その都度同じメニューを頼んでいたからに他なりません。

 このようなコミュニケーションは、何も言語を介さずとも成立しえます。それは皆さんの日常生活を注意深く振り返ってみれば自ずと明らかになることでしょう。

 前置きが長くなりました。上にあげた例の要点をもう一度確認すると、「同じ動作が繰り返し行われることにより、命題は言語を介さなくとも表現されうることになる」ということになります(これを「硬化理論」と呼びます)。

 この硬化理論が、果たして魔法の呪文を唱えるときに通用するのか否か。――これが今回と次回にかけてのトピックとなります。

 魔術の呪文における、硬化理論の適用妥当性について、引き続き検討してみましょう。

 直観的に考えてみれば、硬化理論は呪文を唱える場面でも応用できそうです。

 例えば、ある魔術師が、「アブラカタブラ!」という呪文を唱えることにより、火を付けることが可能だったとしましょう。何度も呪文を唱えるうちに、いつしかその魔術師は、わざわざ「アブラカタブラ」という呪文を唱えなくとも火を付けることができるようになります。

 それはなぜか? その魔術師に尋ねてみたとするならば、彼はきっと次のように答えることでしょう。

 「たしかに、今までの自分は『アブラカタブラ』という呪文を唱えることによって、火の魔法を駆使していた。しかしあるとき、『呪文を唱えているときに生じる心的作用が重要なのではないか』と考えるようになり、今度はあえて呪文を唱えず、火の魔法を発動する際に生じる感情を想起することを試みた。すると呪文を唱えずとも、私は火の魔法を発動することができたのだ。要するに火の魔法を発動せしめようとした私の心的作用が重要だったわけで、『アブラカタブラ』という呪文は、その心的作用を確固たるものにするために用いられた媒介にすぎないのだ」

 魔術師の言わんとすることを現実に置き換えてみたら、次のような内容になります。読み手の皆さんは、何かしらのダンス/スポーツを連想してみてください。例えば水泳で、バタフライの練習をしていたとしましょう。バタフライの動きを習い始めた当初は、コーチからの説明を自分の体に当てはめようとして四苦八苦するはずです。はじめは当然、ぎくしゃくした動きになるでしょう。

 しかし、何度も練習を積み重ねていくうちに、いつしか動きからぎこちなさが排除され、コーチの説明を参照しなくとも、しなやかに泳ぐことができるようになるはずです。

 魔術師はこの一連の流れを「心的作用」と表象していますが、より分かりやすい言葉に置き換えるならば、「動作の自動化が達成された」ということになるでしょう。このとき、人間の意識は動作そのものと直接結び付いているため、わざわざ間に言語をクッションとしてさしはさむ必要はないわけです。

 身近にある例が証明してくれる通り、硬化理論は魔法にも応用できそうです。

 しかしここで、私たちは所与の前提としていた観念について、検討を施さなくてはなりません。

 分かりやすく言えば、日常の動作(ここでは水泳を例にしました)では成り立つものの、魔法では成り立たない点を確かめてみるのです。

 すると、次のような「違い」を発見できると思います。――水泳の動きは、自己完結しています。足の動き、手の動きが異なるせいで、水から拒絶されるなどといったことはあり得ません。

 では、言語の場合はどうでしょうか? 前回例示した居酒屋の常連客が、例えばはじめて訪れたファミレスで「いつもの」と叫んだとします。従業員が困惑するのは必定です。

 要するに言語、あるいは言語に類する機能を持った動作には、「働きかける対象」が絶対に必要なのです。ところが、働きかける対象を考慮すべき内容に含むと、これまでに述べてきた硬化理論は、魔法の呪文を唱える際には全く役に立たなくなってしまうわけです。

 そもそも硬化理論の前提のうちに、言語によるコミュニケーションが含まれているわけです。したがって「言語が作用する対象」が存在しない限り、硬化理論はそもそも役立ちません。

 このことは、我々も嫌というほど現実で思い知らされているはずです。硬化理論がどこでも通用する社会というのは、世界の全人類が同一の言語を話している場合に他なりません。実際はそうでないため、私たちは言語の壁を乗り越えるため、多大な苦労を強いられるわけです。

 問題はそれだけに止まりません。ここまでを読んだ読者の方の中には、次のような疑問を心のうちに秘めている方もおられるのではないかと思います。

「なるほど、硬化理論をそのまま適用することができないということは分かった。しかし、それは設定を都合よく構築してしまえば解決する問題ではないだろうか。例えば、魔法を唱える際に利用される言語が、すべての人間に共通の言語である場合や、あるいは少なくともすべての魔術師にとって共通の言語である場合ならば、硬化理論は使えないこともないのではないか?」

 ――なるほどそうかもしれません。しかし、このような反論がなされている際には、「呪文が人間以外の対象にも働きうる」という可能性を見落としています。「アブラカタブラ!」という呪文で着火できると設定するとき、着火できる対象は言語を理解できる人間のみならず、岩や木、草に対してもそうでなくてはなりません。

 はたして、岩や、木、草といった、直感的には意思を持たないように思われるこれらの物質に、呪文は作用するのでしょうか。――このエッセイは、あくまでよい設定作りを目的としているため、これ以上本質を追求することはやめにしましょう(「やめにしましょう」などというと、まるで答えを知っているかのような口ぶりに思われるかもしれませんが、実際のところこの問題にまともに答えることはできません。しかし私たちは、少なくともよい設定作りに関してだけは、それなりの体裁を有したものを作り上げることができます。スマホが動作する仕組みはわからなくとも、私たちがスマホを使いこなせるのと同じです)。

 もし、もっとも簡単に設定を作りたいのならば、「神」を登場させるのが一番です。魔法を使う側と魔法を使われる側との間に、「神」というクッションを介在させれば、私たちは認識の問題についてこれ以上考える必要がなくなります。つまり、「魔法使いは、神の超越的な言語を自分のものとして利用できるために、森羅万象に働きかけることができる」という、もっともらしい設定が出来上がるわけです。

 もちろん、「神」を登場させることには一定の副作用があります。第一に、登場する魔法言語が「神」に依存するという点です。これはつまり、「魔法使い側が人為的に言語を作成することができない」ということを意味しますので、「敵対勢力同士で、相手がまねできないような魔法言語を作り出す」とか、プログラム言語のように言語が「発展する」というような設定を殺すことにつながります。どうしてもたくさん魔法言語を作りたいのならば、「神」をたくさん登場させるとか、あるいは逆転的な発想として「神」そのものを作り出す、ということもできなくはないと思います。

▶ 次のページに進む

▶ 前のページに戻る

▶ 『和製ファンタジーにおける「魔法」の設定について』に戻る

▶ エッセイ等一覧に戻る

▶ ホームに戻る

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする