『シュプラッハ・シュピールと私』

 昔むかし、





 といっても、それほど昔のことではなく、せいぜい三年程前、まだ私が中学生だった頃のことになるが、当時どのような理由によるものかは忘れてしまったものの、私たちの学年だけが体育館で、チャップリンの映画『モダン・タイムス』を観ることになったわけだが、文化的教養人相手ならばまだしも、私たちは所詮ただの中学生だったので、しょうじき退屈すぎて死にそうだったことだけしか記憶にないのだが、ひとまずこの話は置いておく。

 さて、今の私は高校三年生というわけなのだが、他の高校三年生がそうであるように、私自身もご多分に漏れず受験生というヤツで、しかも抜き差しならない問題に直面しており、というのもこのまま第一志望を受験しようとすれば、ほとんど神風特攻隊よろしく粉砕を覚悟しなければならず、かといって第二志望にはそこまで行きたいというわけでもなく、早い話が、今までの自分の不勉強のツケをここで払わされていると観念して第二志望に進むべきか、それとも一年間浪人して辛抱すべきかということを、進路指導を担当している国語科のヒガシという先生に相談してみようと思っていたのだが、実は少しばかり懸念していることがあり、というのもこのヒガシという先生は、ぶっちゃけ調子に乗った先生であるということで私たちの学年では評判であり、もっとも私自身はこのヒガシという先生には教えてもらったことがなく、またヒガシ先生がいかなる先生なのか、大して知りもしないうちにその人となりを悪し様に言うのは憚られたため、ヒガシ先生にまつわる風評の大半は聞き流していたのだが、友人から聞いたかぎりでは、現代文の授業中に、とつぜん「ウィトゲンシュタインの“言語ゲームシュプラッハ・シュピール”は――」などと、頼まれもしないのに哲学の話をし始めるいけすかない輩であり、それこそ平安時代にタイムスリップしたならば、ひけらかし系知識人の鼻祖である清少納言とは、きっと旨い酒が呑めるだろう逸材であるということは聞き知っていたので、このときも若干の懸念を抱きつつ進路指導室へと向かったわけである。

 こうして私はその「悪名高い」ヒガシ先生と対面したわけだが、べつだん「調子に乗っている」と言えるほどヒガシ先生は調子に乗っている風貌でもなく、有り体に言えばどこにでもいる普通の高校教師といった様子の御仁であったため、私は特別慎重になることもなく、そのまま相談を持ちかけようとしたのだが、これが失敗だった;

「先生、私の進路について、少し相談に乗っていただきたいことがありまして――」

「そうですか。実は私も相談したいことがあるんです」

「――はい?」

「文学における表現の在り方と、絵画における表現の在り方との違いについてなんですよ」

「はぁ」

「ほら、ベルクソンという哲学者が言っているようにね――」

 と、このヒガシという先生は、『意識に直接与えられたものについての試論』について、私にいきなり私論をぶつけてきたのであるが、このときの私の意識の流れを記述することは極めて困難であると言えるものの、もし一語で要約することが倫理的に可能であるとするならば、それは「死ね」といった類いの言葉であると言うほかなく、そもそも相談しにきたのは彼ではなくて私であり、なるほど「絵画は論理空間を持たない」とか「『絵画を見る』といった行為において、我々は見ることにおいて費やした労力を、絵画の質的な問題と錯覚してしまっている」とかいった言説は、確かに世界の美学ないしは哲学の潮流に何かしらの新しい価値を付け加えるであろう意見であるかもしれないが、しかし今問題としているのは、あるいは今問題にしてほしいのは私の進路についてのことであり、美学に関わる崇高なご高説はまた別の機会に譲った上で、進路指導担当の教員としての責務を果たしてもらいたいと思っているのだが、このヒガシという教員、一度喋り出すと熱が入ってしまうタイプなのか、あるいはただ単純にナルシストなのかは分からないが、とにかくひたすら鼻息を荒くしながら自分のひけらかした知識に酔いしれており、私はすごい嫌だったがしばらく見ているうちに

「コイツぶん殴ったらどうなるんだろう?」

 という、誰かと和やかに会話している際に、突如として沸き上がるあの世界内存在を直観した際の何とも言えない奇妙な心理状態に陥った挙げ句、果たしてそれを実行に移したわけだが、これは別に「小人閑居して不善をなす」といった類いの事柄ではなく、むしろその逆であり、つまり普通の人ならば思い止まってしまうようなことをあえてやってのけることで、真に偉大な何者かになりたかったから、というと格好がつくが、もう少し卑近な説明が許されるとするならば、それはインテリゲンツィアを気取っている頭でっかちの輩に対し、予期せぬ理不尽な喧嘩を吹っ掛けることにより、そいつが顔を真っ赤にしながら「ニーチェがどうの――」とか「アリストテレスがこうの――」とか言うのを眺めて、頭にきたことをストレートに「頭にきたぞ」と言うことができずに、あたかも空転する車輪のごとく哲学者の言説を引用しながら怒っている有り様を見て、そいつの底の浅さを笑ってやりたかっただけかもしれない(「んで、君は自分の怒りを本質直観できるのかい?」)が、その次に生じたことは私の予想を遥かに超えていた。

「ぷるぷるぷるうっ?!」

 という、なんともけったいな悲鳴を上げてヒガシ先生が吹っ飛んだところまではよかったのだが、彼が床に倒れ伏したまま、ピクリとも動かなくなってしまったのを見て、ヒガシ先生は実はスペランカーレベルの虚弱体質だったのではないかという懸念が私の脳裏をよぎった矢先、突然ヒガシ先生の頭が膨れ上がり、進路指導室一面を多い尽くさんばかりになって、その口がだらしなく開いたかと思えば、何とその口の奥にドアのようなものが見えたわけである。

 口の奥に見えるドアをくぐるべきか否かという問題に直面して、私は少しの間思案していたものの、他に考えられる最善の策がないばかりか、こうなってしまったことの責任は確実に私自身にあるので、何ならせめてこの珍事のいっさいがっさいを見極めてやろうと、妙に勇敢な気持ちになってきたので、私はヒガシ先生の口の中に入り込み、その扉をくぐり抜けたわけだが、するとなんということだろう、扉の向こう側にはまったく同じ進路指導室が存在し、まったく同じようにヒガシ先生がテーブルに肘をついていたので、「なあんだ。別にヒガシ先生が調子に乗っていたわけではなくて、私自身がドクサの虜になっていただけか。HAHAHA!」という、仏教風に言えば涅槃に近い境地となったがために、私はヒガシ先生に対して素直に話しかけるという過ちをまたしても犯し;

「先生、私の進路について、少し相談に乗っていただきたいことがありまして――」

「そうですか。実は私も相談したいことがあるんです」

「――はい?」

「文学における表現の在り方と、絵画における表現の在り方との違いについてなんですよ」

「はぁ」

「ほら、ベルクソンという哲学者が言っているようにね――」

 という一連のやり取りを性懲りもなく繰り返した挙句、案の定

「コイツぶん殴ったらどうなるんだろう?」

 という心理状態が私という現存在ダーザインの内側に再びむくむくと湧き上がり、果たしてそれを再度実行したわけだが、聡明な読者の皆さまならばきっともう予想しておられるだろうとおり、ヒガシ先生は

「ぷるぷるぷるうっ?!」

 という、聞くに堪えないみじめな悲鳴を上げて床に倒れ伏し、顔が膨張して口が扉となり、その扉をくぐってみればまたしても進路指導室とヒガシ先生が存在し、かくして私は累計で百回以上ヒガシ先生をぶん殴っては口の中の扉を通り抜けるという所業を繰り返しており、今はもう数えることも面倒になってただひたすらこの行為を反復しているわけだが、ここで突然、中学生のときに観た『モダン・タイムス』の意味を理解したわけであり、要するにチャップリンは「歯車のようになって働いている近代の人間の在り方というものは、人間性から疎外されたかわいそうなものだ」と言いたかったのだろうが、人間はいつの時代だって、それこそ歯車の発明される以前のはるかな昔から、知らず知らずの内に歯車のようになって働いていたわけであり、むしろいつ果てるとも知らない歯車のようなルーティンワークの中に身を投じているときこそ、人間は本当の意味で生きることができるのではないだろうか。

 だから、仮にもしチャップリンが私の目の前に現れて、「いったい君は何をやっているのだね?」と尋ねたとするならば、私はチャップリンのチョビひげをむしり取って床に叩き付けた挙げ句、再度それをチャップリンに貼り付けてから再びそれをむしり取って床に叩き付けた後、赤ら顔をしているチャップリンに向かって「これが生きるということだ」と言ってやるつもりでいるのだ。

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