『アンニュイ』

 今から十年ほど前のことである。

 今こそ女子高生をやっているが、当時の私は小学校に入学したてであり、暇さえあれば「うんこ、うんこ」と言っているような奴だった。

 あるとき、数人の友だちと一緒になって、団地の中でかくれんぼをすることになった。服の袖口を鼻水でカピカピにしているような冴えない男子が鬼になったため、彼が30秒数えている間に、私たちは隠れることとなった。

「うんこ、うんこ」

 私はそんなことを言いながら、団地の一角にある駐輪場に身を潜めた。鬼が遠くに見えたため、こっそり場所を移動し、私は団地の七階にまで上がっていった。

 さて七階に上がってみると、扉が半開きになっている。歩き疲れたためか、そのときの私は強烈な便意を催していた。

 トイレを借りるため、私は意を決して中に入った。

 居間にはやつれた男がいて、天井からは輪っかになったロープがぶら下がっていた。

 男性が私に気づいた。

「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」

「トイレ貸してください」

「ごめんね、お嬢ちゃん。あいにく水道が止められてしまっているんだ。だからトイレは使えないよ」

「じゃあ、ここでする」

「そうか。どうぞ」

 私は床にしゃがみこんで大便をした。

 そんな私には目もくれず、男は脚立の上にあがると、ロープの輪を首にくくりつけた。

「おじさん、なにしてるの?」

「おじさんはね、これから新しい世界に行くんだよ」

「ふーん」

 そんなことより、私は紙が欲しかった。

 男は決心がついたらしく、足場となっている脚立を蹴り飛ばした。男が宙ぶらりんになる。

 しかし次の瞬間、天井を支える梁が軋んだかと思うと、私の目の前で音を立てて崩れ落ちた。天井が剥がれ落ち、男はなすすべもなく床にひっくり返る。土ぼこりのようなものが男めがけて降り注いだ。あいにく男は気絶しているらしく、くしゃみ一つしなかった。

「なんだ、おい、どうなっている?!」

 玄関から怒号が響いてきたため、私は即座にソファーの後ろに隠れた。下の階の住民がやって来て、居間の惨状に息を飲んでいた。

「おい、大丈夫か? しっかりしろ!」

「うーん……」

 呼び掛けに応じて、男も目を覚ました。住民が呼んだのだろう、すぐに警察もやってきて、男を逮捕した。

「どうして……」

 男が哀れっぽい声で警察官に理由を訊いた。

「ばか。自殺も立派な犯罪なんだ。未遂ですんでよかったな」

 警官はおっかない顔をしたまま、うなだれる男を引っ張っていった。

 そして新米とおぼしき若い婦警が、私の大便を紙に包んで押収していってしまった。

 あのときの婦警の神妙な顔は、今でも覚えている。

 しかし私は思うのだ、自殺というのは、大便することとさほど変わらないのではないだろうか。大便に出くわしたら、どんなやんごとなき人であってもアンニュイな気持ちになるだろう。だが何日もそのことを思い出して、アンニュイになっているわけにはいかない。そしてそのことは、案外自殺にも当てはまるのではないだろうか。

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