海賊たちが、東海岸の尖端にあるシブストの砦を襲撃したという事件は、瞬く間に東海岸最大の街・アクラシホンを席巻した。
アクラシホンで宿を営む主人・オルデガは、集会が終わると宿へと戻り、誰もいない受付のカウンターで一人うなだれた。
「こんなことになるとは……」
オルデガは帽子を取ると、額から流れ落ちる汗を手でぬぐい去り、深くため息をついた。春先から初夏にかけては、バンドリカの王都とアクラシホンとを、いくつもの隊商が往来する。アクラシホンの南東にあるシブストの砦は、そんな隊商たちを沙漠の強盗団から守る、貴重な拠点なのだ。
それなのに、今回の海賊の襲撃である。中継地を喪った以上、商人たちは王都まで行き来することはできない。すると当然、宿は暇になる。
「ごめんください――」
落ち込んでいたオルデガの耳に、うら若い女性の声が響いてきた。
「いらっしゃい――」
と、反射的に声を掛けたオルデガだったが、佇む人影の出で立ちを見て、オルデガは我が目を疑ってしまった。
やって来た女性は、年の頃が十七歳か十八歳くらいだろう。だからまだ少女と呼んでも良いくらいかもしれない。奇妙なのは、彼女の来ている衣服だった。年頃の娘にふさわしいような衣裳を身につけているのならばまだしも、少女はズボンを穿き、やや大きめの胴衣を、ベルトで無理やり縛って身体に合わせている様子だった。まるで、まともに着る者がなかったために、とりあえずあり合わせのものを着て表に飛び出してきたかのようである。
にもかかわらず、オルデガの気を引いたのは、少女の面立ちだった。亜麻色の髪は短めだがつやがあり、青い色の瞳には、人を射すくめるような威厳の光に満ちていた。
少女は、それなりの身分があるはず――。宿屋の主人としての勘から、オルデガはそう見て取った。
「お泊まりですか、お嬢さん?」
カウンターに両腕を預け、必要以上にくつろいだ体勢をとると、オルデガは少女に尋ねた。
「いいえ。まだそのつもりはないけど。ちょっと訊きたいことがあるのよ――」
カウンターまで近づくと、少女はカウンターの上に何かを置いてみせた。オルデガは、少女から漂ってくる、あまり似つかわしくないすえた臭いが気になったが、そんなことはすぐに忘れてしまった。――カウンターの上に置かれたのが、金貨だったためである。
「どうぞ、何なりとお訊きください」
湿り気を帯びた金貨をすばやく懐にしまうと、オルデガは答えた。
「この辺りを治めている領主は、たしかカシムとかいう貴族だったと思うんだけど――」
「ええ、そうですが」
「その人って、この町のどの辺りに住んでいるのかしら? 会うとしたら、いったい誰に取り次ぎを頼めばいいのかしら?」
「カシム様に会う、ですって――?」
オルデガは思わず吹き出しそうになった。カシムほどの人物になると、市井の人びとの前には、ほとんど姿を現さない。そもそも王都での職務が忙しく、自分の領地にいることさえ稀なのだ。
「もっとも、ここ数年というものは、この町に戻ってきておられる、との噂ですがね」
「そうなのね」
「ええ。今回の海賊の騒ぎがカシム様のお耳に入れば、何かのきっかけとなるやもしれません」
「そうだといいけれど。……ねぇ、ところであなた、海賊について何か知らない?」
「海賊……ですか?」
オルデガは肩をすくめた。
「さぁ……詳しいことは、何も。ただ、カシム様がこの町に戻ってきた時と同じくらいに、南海岸に突如として現れた、とは耳にしていますね」
「そう。……だとしたら大変よね? 南海岸の辺りには、たしかサウルという大臣の領地があったはずでしょう?」
「ええ、ええ。ですからサウル様はやっきになって、軍隊を派遣しておられるとのことです。もしかしたら、南海岸を一通り荒らし回ったからこそ、この東海岸までやって来たのかもしれません」
「サウルは自分の領地が荒らされるのを見過ごしていたわけ?」
「さぁ……見過ごしていたわけではないでしょうが……」
ここでふと、オルデガはある噂を思い出した。
「そうです、そう言えばサウル様は、オルタンス陛下にかかり切りであるという噂を耳にしたことがあります」
「オルタンスに……?」
この話しは、明らかに少女の興味を引いたようだった。もっともオルデガは、陛下のことを「オルタンス」と呼び捨てる少女の態度の方が気になった。
「――その話、詳しく聞かせてくれないかしら?」
少女はカウンターに肘をつくと、再びオルデガに金貨を手渡した。というよりも、ほとんどオルデガの懐の中に、金貨をねじ込むかのようだった。
「三年前のことですが、王として即位して以降、オルタンス陛下はずっとご病気で伏せっておられるとのことです。それからというもの、サウル様は陛下を見舞いつつ、国政を仕切っておられるのですが、どうも人望の薄い御仁であられるらしく、あちこちで不満がくすぶっておるのです。……内緒の話ですが、このたびの海賊も、サウル様の失政が遠因であると、街の者は噂をしております」
「オルタンス……じゃなくて、陛下が病気で伏せっているのは、どうしてなのか分かる?」
「さぁ……そこまでは……ただ、オルタンス陛下は姉君のエリジャ姫を大層慕っておったという噂は耳にしておりますので、それが理由かもしれません。――しかし、エリジャ姫はどうして、右大臣殿を殺したりなさったのでしょう? 噂を聞くかぎり、とてもそんなことをする人とは思えませんが……」
「……エリジャ姫が右大臣を殺すような人じゃない、というところには、私も賛成だわ」
少女は心なしか嬉しそうだった。
「では、ありがとう。急ぎの用事を思い出したから、ここで失礼するわ」
「まいど。お達者で――」
ちぐはぐな格好の少女を見送ると、オルデガは鼻の下を伸ばしつつ、懐に手をしのばせた。今日だけで、労せずに金貨二枚の丸儲けである。
「ん……?」
金貨を手にしたオルデガは、その裏側が妙にざらついていることに気づいた。
「あっ!」
裏側を覗いてみたオルデガは、思わず悲鳴を上げる。金貨の裏、少女が見えないように隠していた面には、血糊が固まってこびりついていたのだ。