第15話:さすらいの放蕩息子

 王都が雨の中へと沈んでゆくのに、それほど時間はかからなかった。季節外れの大雨のため、バザールを行っていた商人たちはみな家へ引き返し、酒屋に出払っていた男たちも、客引きの女たちも、散りじりになっていった。

(おかしい……)

 門の前で、先ほどからじっと佇んでいるひとりの少女がいる。アースラだった。アースラお気に入りの鮮やかな赤の衣は、雨を含んだ土埃のせいで黒ずみ、履いている沓は泥だらけになっていた。雨の冷たさのせいで、アースラは先ほどからずっと震えていた。

(どうして……?)

 雨を嫌った門番も、門の内側にある詰め所へ引っ込んでしまっている。それでもアースラが引き返さないのは、ヨルムの返事を待っているからだ。

 そして――エリジャ姫が王宮を追放されかけている今、アースラには帰る場所さえないのだった。

(まさか……ダメだったのか……そんな……!)

 信じられない、という気持ちで、アースラの頭の中はいっぱいになる。内大臣はエリジャを裏切り、右大臣は殺された。頼みの左大臣は、エリジャ姫を窮地から救い出そうともせずに、無視を決め込んでいる。

 そのとき、アースラの耳に、雨音とは別の、誰かのささやき声が聞こえてきた。アースラはとっさに、ささやき声のする方向、街路の奥に目をやる。二人組の覆面をかぶった男たちが、アースラの視線を察知し、とっさに姿をくらました。

(しまった……!)

 次の瞬間にはもう、アースラも反対方向へと駆けだしていた。今の男たちは、きっと密偵だろう。エリジャの味方を見つけ出しては、始末しようとしているのだ。

「ハァ、ハァ――」

 激しく息を切らしながら、アースラは歓楽街まで逃げ込んだ。歓楽街の路地はアーケードで囲われているため、雨に濡れる心配はない。自然と人も多く集まって、雨が止むのを待っていた。人を隠すのならば人の中である。

「ううっ……」

 アースラは壁を正面にしてうずくまると、一人涙を流した。もう誰も、エリジャ姫のことを助けてくれる人などはいないのだ。エリジャは、皆に愛されているとばかり思っていた。ちょうどアースラが、エリジャのことを愛しているのと同じように。だが、それは違うようだった。

 エリジャを支えられるのは自分しかいない――アースラはそのことに気づいた。しかし、いったいどうやって?

 目元をぬぐいながら、アースラはさまようようにして、街路へ繰り出していった。濡れぼそり、憔悴しきった様子のアースラに、ひよこ売りの黒人ニグロの少年も、横たわって施しを待つ盲人たちも、すすんで声を掛けようとはしなかった。

◇◇◇

 どれほど時間が経ったことだろう。すっかり店じまいした青果市場の辺りをさまよっていたアースラは、よろめいた拍子に、やはり同じようにさまよっていた酔っ払いにぶつかってしまった。

「あっ……」

「おい、気をつけろ!」

 木箱にしがみついたアースラは、慌てて立ち上がると、すぐにその場を去ろうとした。

「す、すみません……!」

「いや、おい、ちょっと待て――」

 アースラの腕を、ぶつかった相手が無理やり引っ張る。

「は、離して――!」

 アースラは男の手を振りほどこうとした。しかしそのとき、男はアースラの頬のあたりを掴むと、自分の方へ顔を向けさせた。

「う……っ?!」

「見ろよ、ほら」

 アースラの頬を掴んだまま、男は隣にいる従者とおぼしき人物に話しかける。男の酒臭い息が、アースラの顔にもかかった。

 アースラが考えた以上に、男は立派な体格をしていた。それでも年のほどは、アースラとさして変わらないだろう。黒い髪に黒い瞳をもつこの青年は、振る舞い方こそ野卑だったが、腰につるした象牙のたまきといい、首にかけたべっ甲の飾りといい、そうとう裕福な家の子息であることは一目瞭然だった。

「なかなか綺麗な顔してンだろ? ……なぁおい、どうだ? 一晩オレの屋敷に来ないか?」

 その言葉を聞いたとたん、アースラの全身に、いっせいに鳥肌が立った。

「は、離せ!」

 とっさにアースラは、右手を横に払う。小さい火花が空間を飛び散り、男めがけて殺到した。

「あちっ! クソッ、何だよ?! ったく――」

 アースラのまじないにひるんだ青年は、悪態をつきながら、アースラを押しやった。かれの腕力に耐えかね、アースラは地面に倒れ伏す。アースラの着る赤い衣が、泥にまみれてぐしゃぐしゃになった。

「せっかくこっちがいい気分だってのに――」

「ロオジエ坊ちゃま、おやめなさい」

 大声を出す男を、従者がおっかなびっくりたしなめている。

(ロオジエ、だって――?!)

 泥水の中に倒れ伏していたアースラは、従者の言葉に耳を疑った。この暴れ者の若者が、どうやら右大臣の息子・ロオジエだというらしい。

「ま、待って――」

 立ち去ろうとしていたロオジエの外套を、アースラは引っ張った。

「おっ、どうした? さては着いてくる気になったか?」

「あなたは……カルフィヌス殿のご子息か?」

 できるかぎり平静を装って、アースラはロオジエに問うた。「カルフィヌス」の名前を耳にしたとたん、ロオジエは面白くなさそうな表情になる。

「何だよ。親父にそそのかされて来たのかよ。にしては、どうしてそんな汚い――」

「どうか聞いてください! お父君はあやめられたのです」

「な、な、何ですと?!」

 アースラの予想に反し、真っ先に慌てだしたのは、ロオジエの従者の方だった。

「そのお話は本当でございますか?!」

「そうです。右大臣のカルフィヌス様は殺されました。内大臣サウルの陥穽に嵌まって、エリジャ陛下に嫌疑がかけられているのです!」

「そんな、いや、しかし――!」

「――おい、ちょっと待て」

 泡を食っている従者を脇にどけ、ロオジエがアースラに尋ねる。

「なぁ、オレの親父が殺されたってのが、いったいオレに何の関係があるんだよ?」

「……は?」

 ロオジエの言葉の意味が理解できず、アースラは身分の違いも忘れ、素で訊き返してしまう。

「死ぬか生きるかはさ、親父にとっては関係あるだろうよ。だけどよ、オレの人生にとっては、何でもないだろ?」

「何を――いったい何を言って――殺されたのは、あなたの父君なんですよ!」

「だからさ、オレは死んでないわけだろ? だったらそれでいいじゃないか」

 自分を射ぬくような、まっすぐなロオジエの視線を受けて、アースラは思わず後ずさった。先ほどとは別の意味で、アースラの全身を鳥肌が覆っていた。

 「右大臣の息子はうつけだ」という噂は、アースラの耳にも届いていた。だが、うつけなどというかわいいものではない、ロオジエという青年は、完全に狂っている。

「イヤだ……」

「おい、どうしたんだよ、そんな寂しい顔するなよ。笑えよ」

 ロオジエが、アースラに向かって手を伸ばした。

「く、来るな――!」

 恐れを感じたアースラは、ロオジエの手を振り払って、振り向くことなく立ち去った。

◇◇◇

 王都の外れまでやって来たアースラは、大きなイチジクの木のうろに潜むと、そこで一人、静かに考えた。先ほどまでは散りじりになっていたアースラの意識も、今は太い、一本の綱へと収束して行くかのようだった。

 アースラは集中して、その綱をたぐり寄せる。エリジャを助けてくれる人は誰もいない、万が一にもいない。――しかし、その事実があまりにも屹立しているために、かえってアースラは冷静になることができた。

 誰かに助けを求めるのはやめよう――アースラは自分自身にそう言い聞かせる。エリジャ姫を救うために、アースラはこれまで奔走してきたのだ。今はだから、その本来の目的を達成するときだ。

 アースラはうろから首を出すと、夜空を見上げた。雲の切れ間から、満月が顔をのぞかせている。

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