第9話:騎士の誇り(Гордость как рыцарь)

 かざされた肉切り包丁の切っ先が、稲光を受けて輝く。

 振り下ろされた肉切り包丁の風を切る音が、ニフシェの耳に届いた。

(今だ……!)

 すかさず身をよじると、ニフシェは縛られた両腕を差し出す。

「あっ――」

 レイが目を丸くしている間に、ニフシェは自由になった両腕で自分の身体を支えると、肘を発条バネにして大きく伸び上がり、旋回させた右足のかかとで、レイの頭を叩き込んだ。

「うぶっ?!」

 蹴りの勢いに全身を持っていかれ、レイはそのまま真後ろへ吹き飛んだ。しかし、その右手から肉切り包丁が離れることはない。

(そう上手くはいかないか……)

「ああ、やるじゃん、姉ちゃん……」

 立ち上がったレイは、歯茎を大きく見せて笑う。口から血が滴っているせいで、レイのあどけなさが不気味に際立った。

「そうこなくっちゃな……無抵抗だとつまんねえし……肉もだらしねぇし……」

「逃げるなら今のうちだぞ、レイ」

「何寝ぼけたこと言ってんだ、姉ちゃん……」

 忍び笑いを漏らすと、レイは肉切り包丁のなまくらな切っ先を、ニフシェに向けた。

「姉ちゃんは今魔法が使えねえし、武器も持ってない。だけどオレは武器を持っているし、何より”選ばれた”んだ。……この意味、分かるだろ?」

 ”選ばれた”というレイの言い方が、ニフシェには引っかかった。この「孤児院」に、子どもはレイとドーラしかいない。そして、その二人が”選ばれた”とするのならば、考えられることはわずかしかない。

「エルーリアか……。何か仕込まれたんだな? アイツが、キミに何をしたんだ?」

「言わねえよ、姉ちゃんには……!」

 言うが早いか、レイは肉切り包丁を構え、ニフシェに向かって突っ込んできた。”選ばれた”ことを自称するだけはある。突っ込んでくるスピードも、一歩一歩の重さも、人間としては規格外である。この代謝を維持するためには、人肉を食べないとやっていけないのだろう。

「喰わせろォ!」

 今のニフシェは魔法も使えないし、武器もない。それでも唯一、レイが持っていないものをニフシェは持っている――闘いの経験だった。

 身体を開いてはじめの一撃をかわすと、ニフシェはレイの連続突きをしのいだ。この時点ですでに、レイが焦っていることはニフシェに丸わかりだった。足は止まっている上、自らが繰り出す突きにつられ、目線も泳いでいる。

 短刀で突きを繰り出すときには、標的を正面に捕らえ、相手の懐に飛び込むつもりで踏み込まなければならない――。近接戦闘の鉄則だ。身を翻して包丁の尖端をかわすと、ニフシェはブーツでレイの足を踏みつけ、今度は喉めがけて一発、掣肘をたたき込んだ。

「うがっ……?!」

 ひるんだレイが、肉切り包丁を床に落とす。レイの股間に左腕を通し、右脇でその首を絞めると、ニフシェは自分の体重をレイに預け、細かくステップを刻みながら、遠心力を頼りにその身体を投げ飛ばした。首投げである。レイは頭から床に着地すると、そのまま後ろにあった廃材の山に激突した。

「わかったろう、レイ?」

 立ち上がって自分を睨にらみつけてくるレイに対し、ニフシェは床に刺さっていた肉切り包丁を蹴りあげて構える。

「コイクォイの肉で我慢してくれよ。……欲を言えば、野菜で我慢してほしいけれど」

「バ……バカにするな……!」

 駆け出してきたレイが、ニフシェに向かって腕を伸ばす。ニフシェが肉切り包丁を突き出すと、レイは臆することなくその刃を掴んだ。空いた右手で拳を作ると、レイはそれをニフシェに叩き込もうとする。身体をよじって拳をかわすと、ニフシェはレイの手首を左手で掴んだ。

 そのときだった。レイがとつぜん上半身を折り曲げたかと思えば、歯をむき出しにして、ニフシェの左手に噛みついてきたのである。

「痛いッ……!」

 思わず叫ぶと、ニフシェはその場で跳躍して、レイの胸元を蹴った。レイが転び、その歯がニフシェの左手から離れる。

 血まみれになった自分の左手に、ニフシェは目を凝らした。親指と人差し指の間の皮が、レイによって食いちぎられている。

「あぁ、旨かったなぁ……」

 立ち上がったレイが、舌なめずりをした。

「最高だよ……姉ちゃん、うますぎるよ……」

 ニフシェは覚悟を決めた。口からだらしなくよだれを垂らし、黄色くぎらついたまなざしを送るレイを見て、ニフシェはもう、レイには人間らしい心が残っていないこと、人を殺すことに何のためらいもないこと――を、思い知ったのだった。

 レイの真正面に、ニフシェは立ちはだかる。

「さぁ……来い!」

 ニフシェのかけ声を合図に、レイがうなり声を上げながら、廊下を突進してきた。突進のエネルギーを受け止めきれず、床はレイの足跡でへこむ。

「死ねぇ!」

 レイの声が、廊下にこだました。そのときにはもう、ニフシェもレイの正面に突っ込んでいる。

 が、やみくもに突っ込んでいるわけではない。手を開くと、ニフシェは肉切り包丁を中空に放った。

 レイはそのままニフシェに突進し、爪を立てるつもりでいたのだろう。そんなレイの視線が、床に落ちつつある肉切り包丁に吸いよせられていった。このまま突進するか、包丁を取り返すか――それでレイは迷ったのだ。

 レイが迷ったのは、一瞬のことだ。

 だが、一瞬でも迷ってくれれば、ニフシェにはそれで良かった。

 つま先で、ニフシェは肉切り包丁の柄を蹴り上げる。肉切り包丁はレイに直進し、切っ先がレイの喉を切り裂いた。

「がはっ?!」

 レイがたたらを踏んだときにはもう、ニフシェは膝を折り曲げ、レイの懐に入り込んでいた。レイの喉に刺さった包丁の柄を握りしめると、レイの身体を自分の背中に預け、そのまま大きく振りかぶった。

「冥府に友たらん――」

 とどめを刺す際の決まり文句を、ニフシェは唱える。喉を縦に裂かれ、顎をたたき割られたレイの身体が、上下逆さまになって吹き飛ばされる。レイにはもう、身体を丸める余裕さえなかった。

「ぎゃあああっ?!」

 脳髄を周囲にしぶかせながら、レイの身体は廊下の突き当たりにあった窓にぶつかる。レイの身体は、そのまま窓を突き破って、砕け散ったガラスにまみれながら、闇のとばりの向こう、”黒い雨”の滴る屋外へと、突き抜けていってしまった。

「くっそ……」

 肉切り包丁で服の裾を細く裂くと、ニフシェはそれを左手に巻いた。きつく巻いてはみたものの、布はあっという間にニフシェの血を吸い、真っ赤に染まる。

 呼吸を整えながら、ニフシェは周囲に意識を研ぎ澄ます。自分の息づかい以外に、音は聞こえてこない。破れた窓から、冷たく湿った風がニフシェのところまで吹き込んでくる。廊下につり下げられた裸電球の灯りが、頼りなく点滅している。――感情の高ぶりが収まってくるにつれ、ニフシェは物寂しさでいっぱいになってきた。

(武器を取り返さないと……)

 そう考えた矢先、かん高い獣のうなり声のようなものが、破れた窓の向こう側から聞こえてきた。とっさに肉切り包丁を構えたニフシェの正面から、何ものかが這い出してくる。

「レイ……!」

 レイの姿が、そこにはあった。ただし、レイ自身はすでに死んでしまっている。その証拠に、レイの頭蓋は縦に真っ二つになったまま、首の左右にだらしなく垂れ下がっていた。

 そして、本来頭部があったところには、別の突起がせり出していた。――灰色のゼリー状のかたまりの中で、黒い種のようなものが房を連ねている。ちょうど、トマトの果肉をすべて取り除いたかのような様相だった。

 レイは復活した。ただし、コイクォイとして。

 レイ”だった”コイクォイが、コイクォイ特有の金切り声を上げながら、ニフシェの方角へ突進してくる。しかし、コイクォイ一匹が相手ならば、ニフシェだって負けるつもりはない。肉切り包丁の切っ先で、ニフシェは”レイ”の頭部に狙いを定めた――はずだった。

(えっ……?!)

 ”レイ”の姿が、ニフシェの視界から消える。

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