第8話:食人鬼の館(Дом людоеда)

彼の尊きをたたえるべし。はすなわち彼の我等をそなえ、我らを人たらしめんとすればなり(彼の偉大さを讃えるべきです。彼が私たちを準備し、私たちを「人間」として下さったのですから)。

『マリヤによる福音書』、第9頁

 何かをすする音と、鼻を突く悪臭とを感じとり、ニフシェは目を覚ました。喘ぎたくなる衝動をこらえると、ニフシェは目玉だけを動かし、周囲の様子を探ろうとする。

 ランタンの灯りを受け、ニフシェの周囲はかすかに照らされていた。廊下の曲がり角に設けられたラウンジの床に、ニフシェは後ろ手を縛られた状態で座っていた。眠りこけている間、幸運にも殺されることなく、ニフシェはここへ連れて来られたようだ。

(生きてる……)

 だが、それが良いことなのかどうか、今のニフシェは正確に評価できなかった。そして、ニフシェのまぶたの裏には、坂の上にある白い家、サーミアットの海岸に佇む別荘のイメージが、こびりついていた。

 窓を打つ雨の音を耳にしていたニフシェは、まもなく違和感を覚えるようになった。普段ならば明晰に聞き取れるはずの雨音が、ぼんやりとしか耳に入ってこない。

(まさか……)

 魔力を発揮しようと、ニフシェは精神を集中させる。しかし、集中力は何度も途切れ、ついにニフシェは魔力を解き放つことができなかった。――自分の魔力が封印されていると気付くのに、ニフシェはそう時間を要さなかった。

(まずいな……)

 ニフシェの額を、冷や汗がつたう。魔力は封印されている上、剣も、銃も取り上げられてしまっている。これから先ニフシェは、この館のどこかに隠れ、封印を解除するための方策を取らなくてはならない。個人の魔力を封印するためには、魔法陣を身体に描くだけで良い。封印の魔法陣は、ニフシェの手の届きにくいところ、おそらくは背中に描かれているはずだった。

 そこまで考えていた矢先、誰かが近づいてくる足音が、ニフシェの耳に飛び込んできた。起きていることがばれてしまわないよう、ニフシェはすぐにうつむいた。

「……ちぇっ、腕だけかよ」

 扉が乱暴に開け放たれると同時に、不満げなレイの声が聞こえてきた。レイがやって来た瞬間、辺りには死臭が立ち込めはじめる。

 そっと目を開けたニフシェは、レイの姿を見て吐きそうになる。

 床に座り込んだレイが抱えているものは、人間の腕だった。肘の内側の柔らかい部分にかじりつき、その肉を食い千切ったかと思えば、今度は肉切り包丁を器用に使い、脛の肉を縦に裂きながら、レイはそれを口いっぱいに頬張りはじめる。

「あぁ……うめえなぁ。でも喉が喰いてえんだよなぁ……」

 レイの目は黄色くぎらついており、こうしてニフシェが凝視しているというのに、まったく気付いていない様子だった。

(食人鬼か……)

 ニフシェの胃が、急速にむかつきはじめる。どうやらこの館で、正気なのはニフシェだけのようだった。

 そのとき、食べ急いでいたレイがむせ、その場で咳き込みはじめる。

「あーあ、飽きちまったよ、コイクォイ……」

 食い散らかされた腕を床に置き、肉切り包丁を握りしめると、レイはそれを力一杯振り下ろした。腕についていた親指がたたき切られ、ニフシェの手前に転がってくる。

「いやー、寝てるねー、姉ちゃん」

(やばい……!)

 ニフシェまで近寄ると、レイは千切れた親指を、包丁の尖端で突き刺した。

「目ぇ覚まさねぇかな……」

 ニフシェの顎を掴むと、レイはその口に、親指を押し込もうとする――。

「……ちょっと、レイ!」

 間一髪のところで、レイの動きが止まった。背後で声を上げているのは、ドーラである。

「何してるのよ、まったく。院長先生から『お姉ちゃんを監視していなさい』って言われてたじゃない」

「ちゃんとしてるじゃないか……」

「いいえ、嘘よ。いま、お姉ちゃんに親指を喰わせようとしてたクセに。……ほら!」

 肉切り包丁を握ったレイの手首を掴むと、ドーラはその尖端についていた親指を、自分の口の中に放り込んだ。

 骨のすりつぶされる音が続いたかと思うと、最後にドーラは、「ペッ」と何かをはき出した。親指についていた爪である。

「いいこと、レイ?! ちゃんと院長先生の言うことは守るのよ! あそこのお姉ちゃんは”素材”として取ってあるんだから。喰ったりするのは許されないわ」

「ちぇっ。分かったよ。……で、ドーラは? どこに行くのさ?」

「決まってるでしょ? そこのお姉ちゃんの”相棒”を探しに行くんだから……」

 そう言ったきり、ドーラはさっさと出て行ってしまった。

 あいかわらずエルーリアは、ニフシェの言ったことを疑っているのだろう。ニフシェに相棒がいることは間違いないが、彼女はニフシェと行動を共にしていない。ニフシェの相棒はマイペースであり、人と一緒に何かをすることが、あまり得意ではない性分だった。

 今頃、ニフシェの相棒は、のんびりと川を遡行しながら、ウルトラまで向かっていることだろう。裏を返せば、ニフシェは孤立無援だということにもなる。

「ああ、やっぱムリだ!」

 ニフシェの考えは、物狂おしげに地団駄を踏むレイのために中断された。薄く目を開けて覗いてみれば、口の周りのよだれを、レイは腕で拭っているところだった。

「待ってられるワケないだろ?もうムリ、オレ、指だけでも喰うわ。ちょっとくらい無くなってても、生きてりゃいいってことだろ……?」

(レイ、キミじゃムリだ)

 肉切り包丁を構えながら近づいてくるレイを盗み見て、ニフシェは心の中でぼやいた。「ちょっとだけ」とか「宿題は明日やる」とかの”自分との約束”は、たいていの場合守られることがない。

 そんなことを考えていた矢先、ニフシェの脳裏に、笑い声が喚起された。――死んだはずの姉・ニフリートである。もしかしたら、ニフリートの言うとおり、自分は大嫌いな姉に、心のどこかで従属しているのかもしれない。

(……負けないからな)

 だが、とにかく今は、目の前の危機から脱出すること、それだけだった。

 かざされた肉切り包丁の切っ先が、稲光を受けて輝く。

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