第10話:エヂオ(Едзио)

なんじ何為なんすれぞ我が命に倍畔そむくか。爾あいなき眷属を生みて我が能力ちからおとしめんとするかれ(お前はなぜ私の命令に背くのか。お前は別の種族を生み出すことによって、私の能力を貶めようとしてはならない)。

『アダムの黙示録』、第16節

 ”レイ”の姿が、ニフシェの視界から消える。

 ニフシェが見たのは、奇声を発して肉薄してくる”レイ”の脇の壁が、突如として盛り上がったところだった。そしてニフシェが瞬きをした途端、大きな雄たけびとともに、廊下の壁は木っ端みじんに砕け散り、中から伸びた太い腕が、”レイ”の身体を圧し潰してしまったのである。

「うわっ?!」

 圧し潰す勢いがあまりにも激しかったために、飛沫となった体液がニフシェにもかかりそうになる。身をひるがえしてそれをかわすと、ニフシェは当初の目的とは逆に、反対側へ向かって一目散に駆け出した。

 ――オ? ――オ!

 怪物の奇怪な雄たけびが、ニフシェの背後から響いてくる。

(今のは……?!)

 耳にこびりついた雄たけびのせいで、ニフシェの心臓は早鐘のように高鳴る。壁を突き破って出てきた腕の太さは、控えめに見積もってもニフシェの胴より太い。かつ、その腕の持ち主は、走っていた”レイ”を一撃で仕留められるほどの俊敏さを持っている。今のニフシェがかなう相手ではない。

(落ち着け、落ち着くんだ……!)

 どれくらい逃げていたのか分からない。入り組んだ廊下の、静かなところまで来ると、ニフシェはその場でしゃがみ込んで、自分自身に言い聞かせた。得体の知れない怪物から逃れようと闇雲に走ったせいで、ニフシェは自分が館の中で完全に迷ってしまったことを悟った。この状況から、エルーリアと、ドーラと、見知らぬ怪物に見つからないようにしながら、ニフシェは自分の魔力と荷物とを取り戻し、館を出なければならない……。

 そのときだった。薄暗い廊下の前方から、懐中電灯の明かりと、杖の音が響いてくる。

(エルーリアか! こんなときに……!)

 辺りを見渡したニフシェは、とっさに腕を伸ばすと、間近に見えたドアノブをひねった。はたして扉が開いたため、ニフシェはすかさず中に入り込む。

「うっ……?!」

 入り込んだ瞬間、ニフシェは部屋の湿気と臭いにやられ、思わず吐きそうになった。部屋には窓もなければ、通気口のたぐいもない。ただ、こんな家屋には不釣り合いの鉄扉が、部屋の奥にあるばかりである。その他には質素なベッドと、衣裳棚と、クロゼットと、鏡台とがあったが、あちこちに線香に立てかけられており、実際の間取りよりも窮屈に感じられた。だが、立ち込める臭いは線香だけのものではない。まるで、本来存在するはずの不吉な臭いを、線香で強引にごまかしているかのようだった。

 不意に襲ってきた恐怖に突き動かされ、ニフシェは本能的にクロゼットの中に飛び込んだ。それで正解だった。間髪入れずにドアノブがひねられたかと思うと、杖を突きながら、エルーリアが入ってきたためである。

(エルーリアの部屋か……)

 クロゼットのすき間から部屋の様子を窺っていたニフシェは、心の中で舌打ちをした。もしエルーリアがクロゼットに近づいてこようものなら、ニフシェは手に握りしめている、この頼りないなまくら包丁一本で、エルーリアと対峙しなければならない。

 足を引きずりながら部屋に入ってきたエルーリアは、鏡台の前に腰掛けると、鼻煙壺からかぎタバコを手の甲にすり込み、それを鼻から吸った。そして

「エヂオ」

 と、声を上げた。

 クロゼットのすき間から、ニフシェは固唾を呑んでエルーリアを凝視した。鏡台から振り向いたエルーリアは、クロゼットの反対側、鉄扉のところに視線を注いでいる。

「エヂオ、どうしたの? ……いるんでしょう?」

(旦那がいるのか……?!)

 鉄扉に近づくエルーリアの背中に視線を投げながら、ニフシェはつばを飲み込んだ。

 エルーリアは、鉄扉の向こう側に声を掛けている。鉄扉の窓には格子が張られており、鍵は固く閉ざされている。まるで、伴侶のことを閉じ込めているかのようなのだ。

「あなた……どうしたの……? ねぇ、どうして返事をしてくれないの……?」

 声を震わせると、エルーリアが鉄扉を拳で叩く。その音があまりにも大きかったために、ニフシェの背中から冷や汗が吹き出した。

「返事をして! エヂオ! わかってるくせに……! アンタは私なしでは生きていけないのよ……! それなのに、どうして……!」

 鉄扉に爪を立てながら、エルーリアは声を荒げる。ニフシェや子どもたちと対峙していた冷静な様子と比べれば、エルーリアはまるで別人のようだった。

「そんなに私のことが憎いって言うの?! ならば出て行きなさい! 出て行けばいいのよ! こんな腐れた屋敷から出て行って、私のことなんか置いていけば良いのよ! そうでしょう、エヂオ?! 『そうだ』って言ってくれれば、まだ私の気は治まるんだから……エヂオ……!」

 エルーリアが鉄扉の前で泣き崩れそうになった矢先、鉄扉の奥から

 ――オ? ――オ!

 といううなり声と、さび付いた鎖の擦れる音が響いてきた。

 ニフシェの全身が総毛立つ。

(まさか……?!)

「あぁ、エヂオ!」

 鉄扉の鍵を開けると、エルーリアはその奥へと飛び込んだ。ニフシェの死角に入ってしまったため、エルーリアの姿は見えない。その代わり、茶色の毛に覆われた、丸太のように太くて長い腕が、クロゼットの正面を横切った。

「エヂオ……良かった……」

 その場に凍りついていたニフシェの耳に、鎖の擦れる音と、エルーリアの涙声とが聞こえてきた。

「心配したのよ……私……『もう来てくれないんじゃないか』って……。エヂオ……私を離さないで……」

 怪物が――”エヂオ”が長い腕をばたつかせながら、低いうなり声を上げた。

「『侵入者』のこと? ……レイを殺してしまった? ……大丈夫よ。怖がらなくていいわ。どうして泣くのよ。心配は要らない。レイの代わりなんていくらでも作れる。侵入者の荷物ならば、ドーラに預けたわ。あの子はかんすい工場に向かってる……あなたには私がいるわ。何も心配しなくていいのよ……何も……」

 怪物の腕が、ニフシェの視界から消え去った。エルーリアの声と、鎖の擦れる音も、少しずつ遠ざかっていく。

 音がしなくなったことを確かめると、ニフシェはクロゼットから飛び出し、その場で盛大に食べたものを吐いた。喘ぎながら鉄扉の方角を見れば、鉄扉は完全に閉ざされており、後を追うことは難しいようだった。

(あの怪物……)

 咳き込みながら、ニフシェは考える。エルーリアは、孤児を化け物に変えてしまうほどの人物である。その伴侶が化け物であっても、ニフシェは少しも驚かない。

 意外だったのは、エヂオのことになった途端、エルーリアが自分の感情を自制できなくなっていたところだった。それにどういうわけか、エルーリアの叫びを聞いている間じゅう、ニフシェの頭の中には、サーミアットの白い家と、ニフリートの姿とがちらついていた。

(いや、考えすぎるのはやめよう。今はただ……)

 今は、この屋敷を無事に抜けることだけに、ニフシェは集中するしかなかった。エルーリアの話を聞くかぎり、この屋敷はかんすい工場とつながっており、ドーラはそこまでニフシェの荷物を運んでいるらしい。荷物さえ奪い取ることができれば、ニフシェは武器を取り戻せるだけでなく、封印を解除することもできる。

 鏡台に視線を向けたニフシェは、その脇の壁に、何かが立てかけてあることに気付く。エヂオの腕が部屋を横切った際に、前にあった線香の束がなぎ倒されたのだろう。

《聖騎士エルーリア・ボイサナンのいくさおととしてのいさおことぎ――、》

 立てかけてあった賞状の文言に、ニフシェは釘付けになる。

 賞状は、次のように続いた、

ここに、の娘のよき伴侶となり、よき母となるを祈らん。

 巫皇 ヨルサン・トレ=シャンタイアクティ》

 と。

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