第7話:ワライカワセミに話すな(Не разговаривайте с Смеющаяся кукабара)

――むすめ其処そこに在りて、わざと忘却と恐れとを生み出したるなり。これらにりて、中つ者らを惑わし、とりことなすためなり(彼女はそこにいて、業と忘却と恐怖とを生み出した。これらによって、中間の場所にいる者たちを誘惑し、とりことするためである)。

『見えざる大いなる霊の聖なる書』、第4節

「どうした……? 笑えよ……?」

 ニフシェの姉・ニフリートが、そこにいた。白く、細い歯をかすかにみせて笑うニフリートを見て、ニフシェはその場に立ち尽くした。

 ニフリートは、亜麻色の髪を肩の高さまで垂らし、水晶のように透きとおった瞳を持っている。銀色の長い髪を一房に束ね、紺色の瞳を持つニフシェとは、似ても似つかない姉だった。

 だが、それは当然のことだった。ニフリートは第一夫人、つまりは正室の娘であるが、ニフシェは第二夫人、側室の娘だからだ。

 そして、忘れてはならない事実がひとつある。十ヶ月ほど前に、ある事件が引き金となって、ニフリートはシャンタイアクティの南・キラーイと呼ばれる火山の噴火口に滑落し、焼け死んだはずなのだ……。

 ニフリートは水色のシャツを着て、鉛色の半ズボンを穿いていた。そしてあろうことか、彼女はサンダルを履いていた。ニフリートもまた騎士であり、騎士はいかなるときもブーツを履かねばならないというのに。

「――死んだはずじゃないのか?」

 妹の質問には答えず、ニフリートはただ近づいてくるだけだった。この姉はいつだって、妹の言っていることなど、まともに取り合わないか、頭から無視してしまうのだ。

「こっちへ来るといい。……どうしたんだよ、ニフシェ? 怖い顔をするのはよせよ――」

「死んだはずじゃないのか?」

「本当に大事なことは、自分で行うべきじゃないか? でも、分かってるよ。みんな勇気がないんだよな」

 口の端を歪めるようにして笑うと、ニフリートはきびすを返し、階段を上っていってしまう。ニフシェも渋々地下室を抜け出すと、階段を上り、姉の背中を追いかけた。

「今日は機嫌が良いんだ、ニフシェ。だから、野暮ったいことであっても、いくらでも言える……」

 階段を上りきると、ニフリートは居間の中央にニフシェを通した。椅子に座ると、ニフリートは白木でできた食卓に両腕を投げ出す。

「ニフシェ、自分が死んだ、と思ってるんだろ?」

 唇をゆがめ、姉はニフシェに微笑んでみせた。ニフリートの正面に座ったニフシェも、心にざわめきを感じ、自分の胸にそっと手をあてる。

 そんな妹の様子を見て、ニフリートはわざとらしく目を見開いてみせた。

「繰り返しになるけれど、ニフシェ、楽しい時間は終わったんだ。だからボクは、自分でも珍しいと思うくらい辛抱強く、キミに同じことを繰り返し言っているんだ」

 ニフリートは身を乗り出し、更に続けた。ただしその語り方は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。

「ボクだって、もうちょっと静かに死んでいたかったのにさ。……どうした? 笑えよ? 面白いだろう――」

「ニフリート、」

 姉の正面に座ると、ニフシェは尋ねた。その拍子に、食卓の花瓶に挿してある、一輪の黄色い百合がニフリートの方を向いた。

「ここから抜け出すためには、どうすれば良いんだ?」

 妹の質問に、ニフリートは答えなかった。視線はニフシェの方を向いていたが、その瞳には何も映り込んでいないかのようだった。そのくせ、ニフリートは唇の端をゆがめ、かすかに笑っているのである。

「ニフリート、お願いだよ、意地悪しないで――」

「フフフ……」

「ニフリート?」

「フフフ……アア、ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ――?!」

「ニフリート……!」

 大笑いするニフリートを前にして、ニフシェはただうめくしかなかった。ニフシェの全身には鳥肌が立ち、額からは脂汗が流れる。

 先程からずっと、自分の言葉の裏に隠れている本音を、ニフリートが皮肉を込めて暴き立てていることに、ニフシェは気付いていた。「死んだはずじゃないのか?」とニフシェが尋ねた時、ニフシェは心のどこかで「死んでいてほしい」という願望を抱いていた。

 だからニフリートは、そんな妹の思考を察知し、「本当に大事なことは自分で行うべき」と切り返したのだ。姉には死んだままでいてほしい、しかし今、目の前にいる姉を直ちに殺す勇気はない……そんなニフシェの他力本願さを、ニフリートは見抜いているのだ。

 そして今、ニフリートはこうしてあからさまに笑い立てている。何がそこまで滑稽なのかについて、ニフリートはいちいち説明したりなどはしない。だが、その笑い声が自分自身に向けられていることは、ニフシェにも良く分かっている。

「ニフリート……やめてくれよ……ボクを笑うのはよしてくれ!」

「”喜ぶ”のはよせよ……」

 「喜ぶ」という言葉を殊更に強調すると、ニフリートは笑うのをやめ、ニフシェを手で制した。

「素直になれよ、ニフシェ。キミがボクに死んで欲しいと思っているのは分かっているよ。だけど、憎しみ合うのはもう止めにしよう。楽しい思い出をここで作るのも、悪いことじゃないだろう? 二人で海辺を歩いたり、歌を歌ったり……現実を充実させるのは、素敵なことだとは思わないか?」

「”現実”だって?! まさか!」

 突拍子もない姉の言葉を、ニフシェは否定する。

「じゃあ何でキミは『自分は死んだ』なんて言うんだ?!」

「死んでいるとか、生きているとか、そんなことは些末な問題にすぎない」

 幼児を説き伏せるかのようにして、ニフリートはゆっくりと話しつづける。しかし、突然踵かかとで床を蹴りつけると、

「ああ、野暮ったいな! 自分の野暮ったさを殺してやりたくなる。――だけど、まぁ、いいさ。今日ばかりはしょうがないな! キミに免じて自分を赦そう!」

 と付け足した。

「もっとも、ボクが死んだことで、キミがせいせいとしていることは知っているさ。繰り返しになるけれど、みんなそうだったし、世界ってのは、そんなもんなんだな。天才を浪費するものなんだから。でもね、ニフシェ。ボクを嫌いな人たちも、キミ自身も、本当はみな、ボクなしでは生きていけないんだ」

 稲妻に触れたかのような錯覚にとらわれ、ニフシェは思わず身震いする。

「な、何を言ってるんだ……」

「キミ自身の胸に訊いてみるといい。……勘違いするなよ? 今のは確かに野暮ったい言葉だけれど、キミみたいな人間にとっては、永遠の真理なんだから」

 不意に立ち上がると、ニフリートは妹のところまで歩み寄る。椅子に釘付けとなっているニフシェの間近に、姉は顔を近づけた。

「種明かしをしてやるよ。信仰にだって種は必要なのだから。キミの言うとおり、ボクは死んでいるし、この世界は幻影に過ぎない。だけど、キミはボクを怖れている。この幸福で不幸な幻影にボクを閉じ込めておきたい程度にはね。つまりは、キミは『ボクを怖がる』という態度を通じて、ボクとの関係性の中で、自分の居場所を確保しているんだ――」

 ニフリートは両腕を広げ、高らかにそう言った。椅子に座ったまま、ニフシェは自然と、膝の上で拳を握っていた。

「そんなはずはない……」

「ありがとう、ニフシェよ。こういう時に使うんだ、『キミ自身の胸に訊いてみるといい』って言葉は……!」

 部屋の中を歩きながら、ニフリートは妹にそう告げる。

「ハハ、参っちゃうよ、ホント。退屈なんだ、ここは。まともに死なせてくれれば良いのに、このままじゃキミの退屈さで死んじまう」

「――ボクはキミなんか欲していない!」

「言葉があるお蔭で、生きていける人間もいるんだろうね」

 立ち上がりかけたニフシェのことを、ニフリートが手で制した。ニフリートと目を合わせたニフシェは、思い出したくもないことを、ニフリートの凍てついたまなざしの奥から見いだしてしまった。

 ニフリートは天才だった。これは否定しがたい事実だった。しかしニフリートは、周囲がウスノロに見えて仕方ないという態度を、隠そうともしなかった。みながニフリートに怒りを覚えたが、彼女を止めることは誰にもできなかった。――できるわけがないのだ。ニフリートの前では、どんな人間の素質も、努力も、全てなきに等しかったからだ。

 そんな姉の隣に並べられてしまえば、ニフシェの凡庸さが際立つのは当然だった。そしてニフシェが自分の無力さのために途方にくれていると、ニフリートは決まって目を細め、とがった歯をみせて薄く笑うのだ。

 思い出したくもない記憶が、ニフシェに向かって殺到し始める。ニフシェは悲鳴を上げた。

「やめろ!」

 ニフリートの手を振りほどくと、ニフシェは椅子を蹴って立ち上がった。立ち上がったときの衝撃で、花瓶が床に落ち、砕けた。

 そのときにはもう、ニフシェは記憶を頼りにして、海岸の方角へと逃げているところだった。

「ニフシェよ! ボクのかわいい妹よ!」

 ニフシェが後ろを振り向いたと同時に、坂の上にある白い家から、ニフリートのけたたましい笑い声が響いてきた。

「キミの逃げだす勇気が、せめて別の方向へ発揮されていれば! ――アア、ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ――?!」

 笑い声に追いかけられるように、ニフシェは目をつぶり、幻の向こう側、ほとんど無のような方角へ向かって、ただ一人駆けてゆくしかなかった。

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