第6話:最小限の踊り(Минимальный танец)

――主よ、人の幻にまみゆるは、心魂と霊とのいずれに在りや(主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、心魂と霊と、そのどちらを通じてなのですか?)。

『マリヤの福音書』、第10頁

 周囲の妙な静けさを感じ取り、ニフシェは目を開けた。ほの暗い室内の白い壁に、ベッドに横たわっている自分自身の影がくっきりと映りこんでいる。

(ここは……?)

 上半身を起こし、ニフシェは周囲を見渡した。手首まで埋まってしまうほどの、柔らかい布団、色褪せたタペストリー、そして小さな文机の上に乗っている、梟を模した青銅製の文鎮――いずれも皆、ニフシェにとっては見覚えのあるものばかりだった。

「もしかして……?!」

 思わず声を上げたそのとき、カーテンで閉ざされた窓の向こう側から、なじみ深い音が聞こえてくることにニフシェは気付いた。遠い昔、まだニフシェが騎士としてブーツを履くようになる前に、ニフシェが頻繁に耳にしていた音だった。

 寝台から身を乗り出すと、ニフシェは灰色のカーテンを開け、窓の向こうを眺めた。眼下には大きな岩が身を横たえており、その周囲を砂が埋め尽くしている。砂の合間で控え目に咲く草花は、潮風に撫でられてそれとなく騒いでいた。

 海は、それらの更に向こう側で、海岸線を洗っていた。

 ここは、サーミアットの海水浴場――。まだほんの小さな子供だった頃、ニフシェは夏になるたびにこの白い別荘に連れてゆかれ、両親から貴人としての“たしなみ”を、厳しく躾けられていたのだった。

(でも、どうして……?)

 状況が呑み込めず、ニフシェは自問自答する。目覚める直前まで、ニフシェは海岸から遠く離れた辺境の地で、エルーリアに毒薬を盛られていたはずなのだ。

 あのまま自分が無事でいられているとは、ニフシェには到底思えなかった。エルーリアほどの魔術の使い手ならば、昏倒させた相手の脳内に、空想を喚起させることなどは造作もないだろう。空想で混乱させ、精神を消耗させ、弱り切ったところで標的を倒すのは、魔術を使った暗殺の王道である。

 だが、エルーリアがそんな回りくどいことをするとは、ニフシェには思えなかった。今、ニフシェは深い眠りの底にいるのだから、エルーリアはただニフシェの喉を掻き切るだけで良いはずなのだ。

(となると、ボクはもう……)

 しかし、仮に死んでしまっているのだとすれば、この耳に唸る潮騒しおさいや、肌を撫でる湿った風や、鼻をくすぐる磯の香りなどは、いったい何だというのだろうか。

 ベッドから抜け出すと、ニフシェは真っ先に鏡台の前に立った。鏡に映るニフシェの姿は、廃屋にいたときと何ら変わっていない。

(自分だ……)

 鏡の向こう側で虚うつろな表情をしていた自分自身と、ニフシェは偶然にも目が合ってしまった。しかし、今のニフシェは、この出来事にばつ悪げなおかしみを覚える以上に、不気味な何かを感じ取ってしまった。

 鏡台から離れると、ニフシェはドアを開け、部屋を抜ける。この辺りから、ニフシェの記憶も鮮明になってくる。海へ行くためには、一階まで降りなければならない。もっとも、海へ行ったところで何になるのか、そしてそもそも本当に自分は海へ行きたいのかについて、ニフシェ自身もよく分かってはいなかった。

 階段を降りた先で、ニフシェは壁の本棚に並べてある、古びた本を見つけた。『マリヤの福音書に関する解釈指針』、『ビアール公会議に基づく教書』……いずれの本も、今は読む人がいない、古ぼけた本ばかりだった。

 一階の居間に行こうとしたニフシェは、ふと本棚の反対側に目を移した。階段はそのまま、地下へと続いている。

(そういえば……)

 その昔、ニフシェは地下一階の倉庫に、よく足を運んだものだった。といっても、それはニフシェ自身が望んだことではなかった。厳しいニフシェの父親が、ニフシェの失敗を咎とがめては、その自省を促すために、彼女を地下に閉じ込めていたのだ。

(懐かしいなぁ……)

 ニフシェの足は自然と、地下へ続く階段の方へと伸びていた。地下室にいるときだけが、この小さな白い別荘の中で、ニフシェにとっての唯一の憩いの時間だった。もちろんこれは、ニフシェにだけの秘密だ。湿っぽいとはいえ、地下は涼しく、スイッチを押せば明かりもついた。誰にも見られることがなく、何をしても怒られない、ニフシェにとっては唯一の隠れ場所だった。ここにいれば、気難しい父親に怒鳴られることはないし、意地の悪い使用人たちから憫笑びんしょうを買ったり、好奇の視線を投げかけられたりすることもない。そして何より

 ”姉”

 と比べられることもない。

 地下室の中へ、ニフシェは入った。冷たくえた空気が、深呼吸と共に、ニフシェの肺に入ってくる。スイッチを押すと、裸電球が灯り、薄暗い地下室が明るくなった。

 地下室の中央で足を止めると、ニフシェは一息ついた。このときにはもう、ニフシェは自分が現実の世界では昏倒していること、自分が騎士であること、自分がニフシェという人間であること、そういった諸々のことを全て心の内から閉め出していた。自分の心が弾み、その身体は羽のように軽くなっていくのを、ニフシェは漠然と感じ取っていた。

 両脚を肩幅に合わせると、ニフシェは左腕を身体の横にまっすぐ伸ばし、右手の先は肩の付け根に沿わせた。それから旋回するようにして、ニフシェはステップを踏み始める。

 子どもの頃から、ニフシェはこうやって踊ることが好きだった。誰もいない、誰にも見られない静かな場所で、目を閉じ、ただ自分の足音だけを身近に感じながら、心臓の鼓動のリズムと、流れる空気のリズムとを噛み合わせていく。呼吸と踊りとが完全に一致したとき、ニフシェの魔力は波動となって周囲に拡散し、また跳ね返って自分へとかえっていく。還ってきた魔力を感じるたびに、ニフシェは絶えず満足感と、新鮮な気持ちとを味わうのだった。

 つま先で床をなぞりながら、ニフシェは細かくステップを刻む。目をつぶり、息を吐くことに集中しながら、ニフシェは胸を開いて、両腕を高く上げ、地下室を自分の気力で満たした。ニフシェの踊りに感化され、ぶら下がった裸電球は円を描くようにして揺れ動き、ニフシェの手の動きに合わせ、棚の荷物は小刻みに震える。

 このままずっと、こうしていたい――。頭の片隅で、ニフシェはそう考える。その気になれば、ニフシェは何時間だって踊り続けることができた。しかし同時に、この心地よい時間がそう長くは続かないということを、ニフシェ本能的に悟っていた。それでもニフシェは、一日が終わってしまうのを惜しんで、かしを決心する子供のように、この時間が中断されてしまわない限りは、しかも決定的に中断されてしまわない限りは、ずっと踊り続けていよう……と、そう固く心に誓った。

 だが、”そのとき”はやってきた。やってくるときは静かだったが、それは唐突で、しかも避ける手立てはなかった。

「下手くそな踊りだな……。やめろよ、そんなの」

 ニフシェの背後から、少女の声が響く。その声を聞いた瞬間、ニフシェの全身を包んでいたはずの気力は撹拌し、ニフシェは自分が、薄暗い地下室の中央に、一人取り残されてしまっていることに気付いた。

「楽しそうだな、ニフシェ。このボクが『楽しそうだ』って言ってやるよ。だからもう、楽しい時間は終わりだ。……ボクの言っていること、分かるだろう?」

 振り向いたニフシェは、立ちはだかる人物を見て、かすれた声で名前を呼ぶことができるだけだった。

「ニフリート……?」

「どうした……? 笑えよ……?」

 ニフシェの姉・ニフリートが、そこにいた。

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