肇の支配者の国、都て恐れ懼き、冥府の基礎揺れ動くなり。
『ヨハネのアポクリュフォン』、Ⅱ.14-15
「ミーシャ、準備はいい?」
「キャー。」
ミーシャの声を合図に、ニフシェは手のひらに集めた自分の魔力を、正面に立っているミーシャへと投げた。ミーシャも同様に、自分の魔力をニフシェの方へ投げる。
二人の魔力は中空で渾然一体となり、そのまま広間の床に描かれた、正十七角形法陣の中心へと吸い込まれていく。
正十七角形法陣は、ひとつの円と外接しており、その円の直径の両端には、ニフシェとミーシャが立っていた。いま、吸い込まれた魔力に反応し、魔法陣が発動する。飛散した火花で周囲は明るくなり、それと呼応するようにして、遠くからが轟音がこだまし、地面が揺れた。
「上手くいったみたいだ、ミーシャ!」
「キャー。」
轟音は鹹水工場全体を震わせる。これでもう、エルーリアが作り上げた地下の研究室は、湿った、冷たい土の中だ。彼女の研究が、これ以上続くことはないだろう。
「ニフシェ、行こう?」
「まだだよ、ミーシャ」
目を細め、ニフシェは鹹水工場の向こう側、エルーリアの住み処である廃屋を見つめた。この爆発を聞きつけ、エルーリアは血相を変えてやってくるに違いない。
エヂオと共に――。
「覚悟はできた、ミーシャ?」
ニフシェの問いかけに、ミーシャは頷いた。
建物の中が、次第に明るくなる。一晩中降り続いていた”黒い雨”は雨脚を弱め、朝のかすかな陽射しが工場の中に注ぎはじめたのだ。
朝露の中を通り抜け、一つの影がニフシェたちに近づいてきた。二本脚の巨大な影の上に、やせた女性の影が乗っている。
エヂオの姿を見たのは、ニフシェにとっても、ミーシャにとっても、これが初めてだった。エヂオの背丈は、ニフシェの三倍はあるだろう。その肩は筋肉で盛り上がっており、オートバイ程度ならば、軽く小脇に抱えることができそうなほどだった。全身は茶色い体毛で覆われており、丸太のように太い腕からは、黒い光沢を帯びた指が三本だけ見える。
エヂオの顔には、ブリキでできたマスクが付けられていた。マスクが影になっているせいで、エヂオの目の辺りは、ぽっかりと穴が空いているように見える。両手と両足につけられた太い鎖が、エヂオが歩くたびに、耳障りな音を立てる。この怪物を制御するための、発明者による物理的な封印なのだろう。
発明者は、怪物の左肩に腰掛け、その頭からせり出している二本の角の一方に掴まっていた。
彼女の名は、エルーリア・ボイサナン。
「やはり、仲間がいたようね……!」
ミーシャの姿を見るやいなや、エルーリアは吐き捨てるように言った。そんなエルーリアたちの一歩前に、ニフシェは進み出る。
「エルーリア、悪いけれど、あなたの研究成果はすべて破壊させてもらった」
「こざかしいマネを……それで勝ったつもり?」
エルーリアは、エヂオの頭を撫でる。
「魔法陣の図式ならば、私の頭の中に収まっているわ。新しく描き直すことなんて、いくらでも可能なの。分かるでしょう、あなたなら? あとは“材料”さえあれば……」
「“人間”さえいれば……」
エルーリアの言葉を、ニフシェは遮った。
「永遠に生き続けることができる、と。諦めるつもりはないんですね、エルーリア?」
「……この”黒い雨”よ? 私が殺さなくても、人はいつか死ぬ。ならばせめて、私とエヂオに尽くすようにすべきではないかしら? 『死者を明らむる者に、この世は相応しからざるなり』よ」
『トマスによる福音書』の一説を、エルーリアは引用する。反論しようとしたニフシェの脳裏に、ある言葉がふと浮かんだ。そして、その言葉を言うべきか否か逡巡していた時にはもう、ニフシェの口は自然と動いていた、
「エルーリア、あなたの愛は嘘だ」
と。
「何ですって……?!」
エルーリアの顔が、一気に蒼白になった。唇を震わせ、何かを言おうとはしているのだが、怒りのあまり、何も言い出せないようだった。
「あなたの愛は嘘です、エルーリア」
自分の言葉を、ニフシェはもう一度反復する。
「ちゃんと見てください、エルーリア。あなたの隣にいるのは、あなたの伴侶ではないはず。エヂオは死んだんです。辛いことかもしれないけれど、エヂオはもう戻ってくることはないんですよ。そこにいるのは、ただの怪物に過ぎない。エヂオと過ごした記憶と、あなた自身の異常な愛情とを、あなたはその怪物に投影しているだけに過ぎないんです。エルーリア、本当はあなただって、気付いているんでしょう?」
(ニフシェ……怒ってる?)
ニフシェとエルーリアの応酬を聞いていたミーシャが、テレパシーでニフシェに呼びかける。怒っている様子のニフシェを見て、ミーシャは不安になってしまったようだった。
(ミーシャ、良いんだ。怒ってなんかいない。だから、怖がらなくていい)
話す傍らで、ニフシェはそうミーシャに返答した。そして、この返答のやり取りを、エルーリアが自らの魔力で感知しないことを、ニフシェは願っていた。
「だから……だから、エルーリア、もう過去に囚われるのはやめてください。本当のエヂオは、あなたの記憶の中で……いや、あなたの記憶の中でこそ、永遠に生き続けることができるんです――」
「ずいぶんと言ってくれるわね……!」
自身の服の胸元を強く握りしめながら、エルーリアが声を震わせた。そして次の瞬間には、エルーリアはもう、鞘から自分の長剣を抜き放っていた。その長剣は、彼女自身が、かつては騎士の一人であったことを示していた。
「アンタたちに……アンタたちに、私たちの何が分かるって言うのよ?!」
「ボクには何も分からない。エルーリア」
長剣を引き抜くと、ニフシェはその先端をエルーリアに向けて構える。この間、ニフシェの脳裏には、かん高い声で笑い続ける、死んだ姉の姿が浮かんでいた。
「ちょうどあなたが、ボクのことが分からないのと同じです」
(ニフシェ、注意!)
ミーシャの共感覚が、いつになく真剣な口調で、ニフシェに注意を促した。
(分かってる……!)
ニフシェも小声で、ミーシャに応答する。ミーシャは先ほどから、もうとっくに剣を引き抜いていた。エルーリアから伝わってくる殺気を、いち早く察知したのだ。
「――決着をつけましょう、この場で!」
構えた長剣の剣先を、エルーリアがニフシェに向ける。
それが勝負の合図だった。
エルーリアを乗せたまま、エヂオはニフシェめがけ、水平に跳躍した。右腕を伸ばしてミーシャの剣戟を弾くと、エヂオは左腕を伸ばす。伸ばされた左腕の先端では、エルーリアが長剣を構えている。
エヂオの手から身を乗り出すと、エルーリアは長剣を下段に振り回す。沓の踵で、ニフシェはエルーリアの長剣をしのいだ。すぐにニフシェは膝から滑り込み、エヂオの股下をくぐり抜ける。ニフシェがエヂオの背後に躍り出たのと、エヂオの右拳がニフシェのいた箇所を叩き潰したのは、ほぼ同時だった。
貯水槽に隠れていたミーシャが、頭上に長剣を構え、エヂオに向かって飛び出した。右腕を伸ばしたことで、エヂオの右脇が甘くなっている。ミーシャはその隙を狙ったのだ。
だが、ミーシャの動きはエルーリアに読まれていた。エヂオの肩の上から身を乗り出すと、エルーリアは剣を逆手に構え、ミーシャの長剣を受け止める。ミーシャはすぐに、後ろへと退くしかなかった。エルーリアの長剣に描かれていた即席の魔法陣が、ミーシャ目がけて火を噴いてきたからである。
ミーシャを後退させたエルーリアが、空いたもう一方の手で指を鳴らす。空中に魔法陣が展開され、描かれた線が外円の内側で踊り始める。変容により様々な効果を連続して生み出す、運動法陣だ。魔方陣から放たれた炎とプラズマとが、ニフシェ目がけて殺到する。エルーリアを攻撃するために溜め込んでいた魔力を、ニフシェは即座に結界に転化させた。炎は結界の表面をなぞって周囲に発散し、偏向したプラズマは天井まで飛び上がり、その鉄骨を打ち砕く。
ニフシェの耳が、空気の割れる音を捉えた。――攻撃を放った瞬間、エルーリアは真空を作り出し、そこへエヂオの身体を滑り込ませたのだ。
しかし、そうなることはニフシェも織り込み済みだった。結界を張るために解き放っていた魔力を、ニフシェは音の波動へと再度転化させ、エヂオ目がけて展開させる。背骨などたやすくへし折ってしまうほどの音の波は、しかしエヂオに届くことはない。ニフシェの魔力を感じ取ったエルーリアが、すかさず結界を張ったからだ。ニフシェの一撃は結界の表面を伝導し、エヂオの周囲にあった石畳を吹き飛ばした。撹拌しきれなかった衝撃が、エヂオとニフシェの身体を反動で真後ろへと押しやり、ニフシェの身体は宙に浮いた。
その一瞬の隙を、エヂオは見逃さない。空中に投げ出されたニフシェにとどめを刺すべく、エヂオが跳躍する。
その瞬間、跳躍したエヂオめがけて、黒い塊が飛び立った。エヂオはとっさに空中で身をよじると、その黒い塊に拳を叩き込む。――しかし、それこそがミーシャのねらいだった。
ミーシャが飛ばした黒い塊は、濁った水の塊である。エヂオの拳は、水の塊を弾くことなく、その中に吸い込まれる。
異変に気づいたエルーリアが、空いていた右腕を、水の塊へと伸ばす。ミーシャの魔法によって水が凍るよりも、エルーリアが水の塊を魔力ではじき飛ばした方が、わずかに速かった。
拡散した氷の粒が、貯水槽の広間一帯に降り注ぐ。身体をよじったせいで推進力を失ったエヂオは、そのまま地面に降り立った。
そのときにはもう、先に着地したニフシェが魔法を発動している。ニフシェの放った音の波を受け、エヂオの右脚が吹き飛んだ。
「エヂオ――!」
エルーリアが叫ぶ。エヂオは立ち上がることができず、とうとうエルーリアは、エヂオの身体から転がり落ちた。
隆起した上半身に比べると、エヂオの足腰は小さい。上半身を支えるために、エヂオの脚には大きな負担が掛かっているはず。――ニフシェの読みは当たったのだ。
「今だ――」
「……まだまだ!」
エルーリアが長剣を放り投げたかと思うと、すかさず両手を打ち鳴らした。次の瞬間、床に散らばっていた氷の粒が、たちどころに水煙に代わり、ニフシェに殺到した。
剣を真横に構え、ニフシェは撹拌の結界でそれに応じる。この間にもエルーリアは、立て続けに貯水槽内の水を水煙に変えているようだった。室内は霧に覆われ、エルーリアとエヂオの姿は見えなくなる。
(どこだ……?)
剣を正面に構えなおすと、ニフシェは耳を澄ませる。しかし、水煙が渦を巻く音以外には、ニフシェの耳には何も届かない。超音波を使ったところで、気化した水が再度撹拌するのを助長するだけだ。
結界を張り続けたまま、ニフシェは考える。ニフシェの視界は遮られている。しかしそれは、エルーリアも同じだろう。エヂオに危害が及ぶから、エルーリアが魔法を使うこともあり得ない。
となるとエルーリアは、このわずかな間に、エヂオに治癒の魔法を施すに違いない。狙いはその瞬間、魔法を発動し、エヂオもエルーリアも動けない瞬間だった。勝敗を決するには、そこしかない。
(よし……)
自らの奥義を発動しようと、ニフシェが長剣を鞘に収めた、そのときだった。
「助けて!」
ニフシェが予想だにしなかった方角から、人の声が上がった。しかもその声は、ニフシェ自身の声と同じだった。
ニフシェは戦慄する。今の声が自分のものでないのは自明だ。しかし、ミーシャはそう考えるだろうか? ――立ち込める水煙の中、誰かが声の方向めがけて地面を蹴った音がした。
(まずい……!)
奥義のためにかき集めた魔力を、ニフシェは声の方角へ向けようとする。その瞬間、周囲を覆う水煙が、一瞬にして消え去った。声の方角へ迫っていたミーシャが、驚きのあまりその場に立ち尽くしている。――剣を構えていたのがニフシェではなく、エルーリアだったからだ。
エルーリアの長剣の突きを、ミーシャは自らの長剣で受ける。しかし、その受け方はあまりにも中途半端だった。エルーリアに力負けし、ミーシャは剣を弾かれ、たたらを踏む。
その瞬間、エルーリアの剣に貯められていた魔力が展開し、ミーシャめがけて殺到した。
「ミーシャ!」
ニフシェは叫んだ。エルーリアの魔力に弾かれ、ミーシャの小さな身体が吹き飛ぶ。手放されたミーシャの剣が、放物線を描いて地面に突き刺さった。尻餅をついたミーシャめがけ、念動力で跳躍したエルーリアが迫る。
全身に魔力を漲らせ、ニフシェもミーシャのところまで跳躍する。だが、エルーリアの方が一歩早い。全てが遅すぎたのだ。ミーシャの喉に、エルーリアの剣先が唸る――。
そのときだった。
「嫌あっ?!」
声を上げたのは、ニフシェでもなければ、ミーシャでもなかった。自らが刺し貫いたものを目撃して、エルーリアが悲鳴を上げたのだ。
何が起こったのか分からず、ミーシャは尻餅をついたまま、その場で固まっていた。
「あ……」
着地したニフシェもまた、その場に立ちすくむしかなかった。
長剣は、目の前を遮る存在を、確かに刺し貫いていた。ただし、刺し貫かれていたのはミーシャではない。エヂオだ。エルーリアの一閃がミーシャを斬る刹那、自らの腕力を頼りにして、エヂオが割り込んだのだ。
「嫌あっ?! エヂオ……?! どうして――」
エヂオに狂う前には、エルーリアはシャンタイアクティでも一流の騎士だったのだろう。その剣戟は一分の隙もなく、エヂオの背骨を断ち、胸まで貫通させていた。
「エヂオ……嫌ぁ……」
エヂオとエルーリアの身長差は、このときにはほとんど残酷だった。右脚を打ち砕かれ、背骨をへし折られたエヂオは、その重すぎる上半身を支える事ができず、エルーリアの上に覆い被さるように倒れ込んだ。エルーリアもまた、エヂオの身体を支えてやることはできなかった。自らの身体を研究の実験台とした後遺症で、エルーリアの足腰は弱っている。そしてもう、エヂオを支えてやれるだけの気力は、エルーリアの中に残されていないようだった。
エルーリアとエヂオは、共に床に倒れ込む。倒れ込んだ拍子に、エルーリアの剣はへし折れ、エヂオの傷口から鮮血がほとばしった。吹き上がった血しぶきで、エルーリアの金色の髪と、その白い服が真っ赤に染まる。
「ニフシェ……!」
呼びかけられたニフシェは、ようやく我に返った。立ち上がったミーシャが、エルーリアから距離を取っている。
「エヂオ……!」
エヂオの血にまみれながら、エルーリアはひたすら慟哭していた。いまのエルーリアの姿は、ニフシェの目からは果てしなく小さく、そして弱いもののように映った。
だが、ニフシェに躊躇うことは許されなかった。躊躇わないことこそが、エルーリアとエヂオにできる、ニフシェの唯一の報いだったからだ。
エルーリアに焦点を絞ると、ニフシェは持てる全ての魔力をそこに投影した。ニフシェの魔力を受け、エルーリアは棒立ちになる。なおもエルーリアは泣き叫んでいたが、その声は次第に弱くなり、とうとう聞こえなくなった。――ニフシェの魔術を受け、エルーリアの身体は塩の柱へと変貌したからだ。
”燃える音”――ニフシェが解き放った超音波の魔力は、物質の内部へと浸透し、分子に対して揺さぶりをかける。分子同士は互いの振動で摩擦を引き起こし、無機物ならば自壊を、有機物ならば燃焼を生じさせ、最後に残るのは焼け残ったミネラルだけとなる。シャンタイアクティの騎士の中でも、この奥義を使えるのはニフシェだけだ。
塩の柱にも、容赦なくエヂオの血が染み込んでいく。血の湿りをうけてもろくなった塩の柱は、ニフシェたちの見守る前で、もろくも崩れ去った。エルーリア・ボイサナンはもう、地の塩以上の何ものでもなくなった。
「ハァ……ハァ……」
息を切らしながら、ニフシェはミーシャと共に、エヂオのそばまで近づいた。沓の踵が沈むほどの血だまりができているというのに、エヂオにはまだ息があるようだった。
――オ……オ……
怪物は――エヂオは声を上げ続けていた。ミーシャのまなざしを受け、ニフシェはただ首を振るしかなかった。
「さらばだ、エヂオ」
ニフシェは長剣を逆さに構え、エヂオの心臓に照準を当てる。
「爾を殺すわがうぬぼれを赦せ。而して楽園に朋友たらん……さらば!」
エヂオの心臓を、ニフシェの長剣が刺し貫いた。