第17話:闇の向こう側(За тьмой)

 山の天気は変わりやすい。先ほどまでは光が差し込んでいたというのに、今や北の山の稜線から、黒い雲が迫っていた。

「ニフシェ、こっち。」

 ミーシャに促され、ニフシェも歩みを速める。二人が向かっているのは、鹹水工場の裏側、土手を下った先にある、小さな川だった。

「見て――」

 ミーシャが指し示す方向を、ニフシェは見やった。川面に埋もれるようにして、古びた桟橋が架けられている。そのたもとに、一隻のボートが泊まっていた。

「あれは……?」

「ボート。」

 ミーシャの言葉に、ニフシェはただ曖昧に頷くだけだった。普段のニフシェならば、

「それはそうなんだけど……」

 くらいは言えただろう。しかし、今のニフシェに、そんな心の余裕はなかった。

 無言のままボートに乗り込むと、ニフシェは操縦輪の脇にある鍵穴を指でなぞり、魔力を注ぎこんだ。エンジンが作動する軽快な音と共に、ボートは少しずつ岸から離れてゆく。

「ミーシャ、運転したい。」

「うん」

 操舵輪をミーシャに譲ると、ニフシェは背嚢を下ろし、ボートの中であぐらを掻いた。このボートには屋根がついているから、”黒い雨”に打たれる心配はない。川を移動するから、コイクォイに襲われる心配もない――。

 やがて、”黒い雨”が降ってきた。雨雲の量の割に、降る雨は小雨だった。ミーシャが灯した船の明かりが、薄暗い川面を白く切り取る。

 そんな川面を、ニフシェはじっと見つめていた。ニフシェの耳に届くのは、雨だれの音と、船がふかすエンジンの音だけだった。


「ねぇ、ミーシャ」

 ボートの中にある、ちいさな操舵室の中に座り込みながら、ニフシェは操舵輪を握りしめているミーシャの背中に声をかけた。

「ゴメン、今からボクは話すけれどさ、キミには聞き流していてほしいんだ。身勝手だとは思うけど、ゴメンね」

 ミーシャはつま先立ちになったり、かかとをつけたりして、小刻みにジャンプしていた。それでもニフシェは、ミーシャが自分に同意してくれているのだということを、肌で感じとっていた。

「ボクはさ、エルーリアは自分と同じだ、と思ってたんだよ。ボクがそうだったように。エルーリアも実は、エヂオの記憶に……エヂオにすがって生きていたんだ、と、そう思っていたんだ」

 両手のひらをじっと見つめると、ニフシェはその中に息を吹き込んだ。

「だけどさ……エルーリアにはエヂオがいたんだ。それってつまり、エヂオにとってもエルーリアがいた、ってことだろう? 当たり前なんだけどさ。でもさ、それって大事なことだったと思うんだよ。たぶん、ボクが考えていたよりもずっと。ボクはそれを、見落としていたんだと思う」

 降りしきる”黒い雨”のせいで、周囲は朝だというのに、薄墨がかかったようだった。そして雨脚が弱い分、周囲の静けさはいっそう増していた。

「だからさ……ミーシャ、エヂオがキミのことを庇ったのは……キミのことを庇ったのはさ……エヂオがエルーリアのことを……」

 自分でもどうしてよいのか分からず、ニフシェは言葉を切ると、両手で自分の顔を覆った。

――闇は一つの連帯だ。

 ニフシェの瞼の裏に広がる闇の中に、決別したはずのニフリートが現れた。死んでしまったはずのニフリートは、かつてないほど冷徹な視線で、生きているニフシェを見下していた。

――そして、黒とは色ではなくて、一つの存在なんだ。ニフシェよ、ボクのかわいい妹よ、ボクの言っていること、分かるだろう? 人間はすぐに、生きるのをやめたがる。生きるのも死ぬのも、想像上の解決に過ぎないのに……。

 それだけ言うと、ニフリートは踵を返し、ニフシェの瞼の裏にある、闇の向こう側へと姿を消していった。どこからやって来たのかも分からず、これからどこへ行くのかも分からず、いつか知らないときに闇に没し、没した後どうなるのかさえ分からないというのに、ニフリートは姿を消していった。

「ゴメン……何でもない、ミーシャ……! 今日のことは……ずっとしまっておく。墓場までしまっておく。だれも救われないじゃないか……! こんな話……!」

「――呼んでた。」

 船の操舵輪を反時計回りに回しながら、ミーシャが不意に口を開いた。

「え……?」

「呼んでたよ、エヂオ、ずっとエルーリアのこと。すごい小さな声で。エルーリアを呼んで、泣いてた。」

 ミーシャの言葉に対し、ニフシェは返事をすることができなかった。ミーシャは相変わらず操舵輪を握りしめたまま、小刻みにジャンプをしていたが、それ以上の話をすることには気が進まない様子であることが、ニフシェにも分かった。

 忘れよう――自分自身に言い聞かせるようにして、ニフシェは心の中で呟いた。忘れよう。忘れるんだ、何もかも。ここには何もなかった。ただ一点を除いて、ここには何もなかったのだ。ただ愛だけが、愛し続けることがそこにあっただけだ。

 そういうことにしておこう。そういうことに――。

 二人を乗せた小さなボートは、川を上流に向かって進んでいく。目指す先にはウルトラがある。ニフシェとミーシャの、本来の目的地だ。

 この後、ニフシェはもう一度、今度こそ完全な形で、自らの姉・ニフリートと対峙することになるのだが、それはまた別の物語。

【おわり】

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